電話相談 (10時〜16時)はこちらから 03-3370-4078

セミナーのお申し込み

登進研公式サイトトップ > セミナーのご案内 > 登進研バックアップセミナー100講演内容

セミナーのご案内

登進研バックアップセミナー100・講演内容

不登校—必ず“卒業”する日はやってくる

2017年6月18日に開催された登進研バックアップセミナー100の第2部「不登校—必ず“卒業”する日はやってくる」の内容をまとめた抄録です。

ゲスト 不登校を経験した5人の若者
    笹山 美奈(21歳)
    池上 拓巳(26歳)
    川田 佳子(29歳)
    夏川 正幸(32歳)
    三木 徹 (43歳)
司 会 霜村 麦 (臨床心理士)
助言者 齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学講師)
    荒井 裕司(登進研代表)


※ゲストのお名前は仮名、年齢はセミナー開催時のものです。
※講師の肩書きはセミナー開催時のものです。

 

◆不登校のきっかけは?

霜村  今日は、不登校を経験された5人のゲストのみなさんにお話を聞かせていただきます。私は仕事柄、不登校のただなかにいるお子さんや親御さんとお話しすることはよくありますが、当時をふりかえってご本人からお話を伺う機会はなかなかありませんので、とても楽しみにしています。
 こんなに多くの方々と一緒に壇上に上がるのもはじめてです。不登校というのは十人十色、千差万別で、それぞれいろいろな事情があり、さまざまな経緯をたどります。ですから、できるだけ多くの方々の経験を聞いていただけるといいなという思いからこのような企画となりました。
 では、まずゲストのみなさんに簡単な自己紹介をお願いしたいと思います。
笹山  笹山美奈です。現在21歳で、大学3年生になりました。大学では中国語を専攻していて、去年の9月から今年の1月まで上海に留学していました。不登校当時の家族構成は、父と母と一人っ子の私、そして祖父と祖母の5人で暮らしていました。
 小学校5年生から完全に教室に入れなくなり、中学校のときは適応指導教室に通っていました。幼稚園の頃から母親と離れるのが苦手で泣きながら通っていて、その延長のような感じで小学校1年生から約9年間、不登校でした。まったく教室に入れなくなったのは5年生からですが、その前にもちゃんと教室に入れたことは少なかったと思います。
池上  池上拓巳と申します。今年26歳になります。クレジットカード会社でマーケティングの仕事をしています。
 ひきこもりの期間は中2から高1までで、高1から少しずつ社会復帰していった感じです。きっかけは大きく2つあって、1つは両親の不仲、もう1つは中学校のときに所属していたサッカークラブでいじめが起きて、まわりの人間がいじめられたり、自分も標的になったりするなかで人間関係に疲れてしまい、ひきこもるようになりました。その頃は父がすでに家を出ていたので、当時の家族構成は母と姉と長男、そして三男の僕の4人暮らしでした。いまは独立し、一人暮らしをしています。
川田  川田佳子です。29歳です。ドラッグストアで事務の仕事をしています。当時の家族構成は、両親と私、祖父母、叔母の6人暮らしでした。
 不登校期間は、中1の3学期から高1まで。中1の3学期から行ったり行かなかったりが始まって、中2では月2回の土曜日だけ登校したり、中3のときは修学旅行に行きたかったので1学期だけ頑張って登校しましたが、2学期からやはり挫折してしまいました。高校も入学して2日通っただけで行けなくなりました。
 高1の3学期に別の高校に転校して、そこでも行ったり行かなかったりでしたが、だんだん友だちが増え、先生とも仲良くなり、高2からは真面目に通うようになりました。といっても朝が苦手で、だいたい午後からの登校でしたが、ほぼ毎日通っていました。
 不登校のきっかけは、とくにコレというものは思い当たりません。まわりでいじめがあったりはしましたが、だんだん行くのが面倒くさくなったという部分もあったりして、はっきりとした理由はわかりません。
夏川  夏川正幸です。32歳で、現在は幼稚園の教諭として年中組の担任をしています。
 不登校になった期間は、中2の夏休み明けから中学卒業の手前までです。中2の夏祭りに同じクラスの不良グループのトラブルに巻き込まれたのがきっかけで、夏休み明けから、そのグループに目をつけられているような気がして不安がどんどん大きくなり、学校に行けなくなりました。
 その間、地域の小学校内にある「あすなろ学級」(適応指導教室。そこに通うと在籍校の出席日数に換算される)や、母と一緒に児童相談所に通ったりしていました。当時の家族構成は、母と祖父と僕の3人暮らしでした。
三木  三木徹と申します。現在43歳で、精神科の病院で相談員をしています。精神保健福祉士とケアマネージャーの資格を取り、この仕事に就いて21年目になります。当時の家族構成は、両親と妹と私との4人暮らしでした。
 不登校になったのは30年くらい前のことですが、中1のゴールデンウイーク明けから学校に行けなくなり、きちんと学校に通えるようになったのは中3の秋頃でした。
 きっかけは給食が食べられなくなったことです。まず、給食のにおいがダメになり、給食の時間が近づくと気持ちが悪くなったりお腹が痛くなるので、給食の時間は教室にいないようにしてやり過ごしていました、そのうち登校して下駄箱のところに行くと気持ちが悪くなり、最終的には自宅で朝起きるとお腹が痛くなり……ということで、結果的に学校に行けなくなってしまいました。当時は不登校の子どもが通う適応指導教室やフリースクールなどもあまりなかったので、最初は保健室に登校することから始めて、徐々に教室に入れるようになった感じです。

◆罪悪感と、悲しみと、怒りと

霜村  不登校中はどんなことを考えて生活していましたか?
三木  自分に何が起こっているのかまったくわからなくなってしまった、というのが正直なところです。
 私が不登校になった頃は学校がまだ荒れていた時代で、友だちが先輩からいきなり殴られたりして、自分もいつかやられるんじゃないかという恐怖感がありました。給食が食べられなくなったのも、そういうことが背景になっていたのかもしれません。でも、当時の自分にはそんなことはわからないし、なぜ給食が食べられないんだろう、家族と食べるときは大丈夫なのに、家族以外の人と食べるとなぜ吐き気がするんだろう、いま、自分に何が起きているんだろう、ということをずっと考えていました。
 親も不安だったのか、精神科に連れて行かれて、頭にヘルメットのようなものを被されたり、片足で30分くらい立たされたり、なんだかよくわからない検査をいろいろされたあげく、とくに異常はないと言われて……。そういう状況のなかで、家族の関係もなんとなく悪くなってきて、母親が泣いたり怒ったりすると「自分のせいかな」「死んだほうがいいかな」と思ったり、自分がなぜこんなことになったのかわからないまま悶々と過ごしていたように思います。
 当時、「金八先生」をはじめ学園ドラマが流行っていて、うちのアパートが川の土手の下にあったんですが、その土手に小学校の友人たちが並んで、「三木〜! 学校行こうぜ〜!!」と叫ぶという(笑)、青春ドラマみたいなことをしてくれたこともあります。正直、うるせー、よけいなお世話だと思いながら、なぜ自分は向こう側に行けなかったんだろう、みんな応援してくれているのに自分は応援する側に立てない……という罪悪感にさいなまれました。
 他人と食事ができない状態はずいぶん長く続きました。中学卒業後、1年間、高校浪人をして予備校に通いましたが、予備校時代も治りませんでした。その後、高校に入って弁当になってからは食べられるようになりましたが、そのような感じで、なぜ自分がこうなったのかわからないまま2〜3年を過ごしました。
夏川  僕が通っていた中学校はいろんな地区の小学校から生徒が集まってきていて、僕らの小学校は平和な空気だったんですが、他の小学校から来たグループは不良っぽい子も多くて、2年になってからその不良グループが幅をきかせるようになっていたんです。
 不登校のきっかけになった夏祭りの夜、家に帰ってくると、その不良グループから電話がかかってきて、「おまえ、許さないからな!」みたいなことを言われました。実際は何もされなかったんですが、その衝撃があまりに大きくて、それまで人に敵意を向けられるとかケンカみたいなことからいちばん遠くにいた人間なので、それが間近に迫ってきた恐怖で、夏休み中はほとんど外に出られませんでした。
 夏休みが明けてもその恐怖は変わらず、朝、お腹が痛くなったりして、「お腹が痛いから学校に行けない」ということをくり返しているうちに、本当に具合が悪くなってきて不登校になった感じです。外に出たら不良がいるんじゃないか、駅前に行ったらいるんじゃないか、ゲームセンターの近くは絶対ダメだし、コンビニもいるんじゃないか、と不安要素がどんどん広がって、家以外の安全な場所はないと思うようになりました。
 母は仕事をしていたので、昼間はおじいちゃんと2人で過ごしていましたが、おじいちゃんは不登校のことなんて全然わからないし、顔には出さないけれど、孫が一日中家にいてだらしない生活を送っているなと思っていたはずで、一緒にご飯を食べたりテレビの時代劇を見たりしながらも罪悪感にさいなまれました。
 朝夕の犬の散歩は僕の役目だったんですが、朝は登校時間とぶつかるし、夕方は下校時間とぶつかるしで、僕がまったく外に出られないので、おじいちゃんが代わりに行ってくれて、膝が弱いのに悪いなあと思いながらも、どうしようもなくて……。
 その後、おじいちゃんは急激に具合が悪くなって中3の夏に亡くなりました。それがきっかけとなって、このままじゃダメだと思うようになり、そこからだんだんと学校に行くことを考えはじめ、卒業式はなんとか出席できたのですが、不登校中はなんだか見えないものにおびえていたような感じでした。
川田  不登校のきっかけは自分でもわからないのですが、私も罪悪感だけは半端なくありました。なんで行けないんだろうと必死に考えるのですが、解決しようにも原因がわからないから行けない、親にも心配をかけている、ということで負のループにおちいっていました。でも、結局、行けないものは行けないので、家でマンガ、テレビ、インターネットで遊んだり、美術館や映画館に行ったり、友だちと出かけたり、学校に行けない以外は普通の生活をしていました。
 罪悪感を忘れるために、よくピアノを弾いていました。本を壁に投げつけたりもしていましたが、同じ本を何度も読むタイプなので、投げてしわくちゃになったページが目に入ると「ああ、これ、投げたやつだ……」と悲しくなるし、投げた本を片づけるのは面倒だし、ピアノはそういう面倒のないストレス発散法でした。
 学校には行っていないのに、夏休みとかに課題を与えられると頑張ってしまうタイプで、高校1年の夏休みは、学校に行ってないぶん、みんなの何倍も課題を出されたのですが、ほとんど外出もしないでずっと課題に取り組んでいました。課題の提出日に学校に行ったら、私と同じように課題を出された生徒がけっこう来ていて、ほとんどの子が「まだ終わってないです。すいません」とか言っていて、「え? 課題って終わらせるものじゃないの?」と驚いた覚えがあります。
池上  当時、自分が持っていた感情は、罪悪感、悲しみ、怒りで、このループをずっとくり返しているような状態でした。
 悲しみというのは個人的な事情ですが、両親の不仲に対してです。当時、両親の別居が始まった頃で、親が離ればなれになるのがすごく悲しくて……。その悲しみと罪悪感は、いわば行き場のない感情だったので、それがしばしば怒りとして噴き出してきて、家の壁を殴ったり、ときには母に当たりちらしたりしていました。
 家ではずっとオンラインゲームをしていました。最初はリビングでやっていたんですが、リビングのパソコンを自分の部屋に持ってきて部屋でやるようになり、それでも足りなくて(ゲームの中で活躍するには1台では足りないんです)、部屋のパソコンとリビングにもう1台買ったパソコンとの間を行き来してツーキャラクターでやっていました。1日20時間くらい、食事中もやりつづけて、とにかく忙しかった(笑)。
 母親はゲームをやめさせようとロックをかけたり、LANケーブルを抜いたり、マウスやキーボードを隠したり、いろいろやっていましたが、ロックはすぐ解除しちゃうし、隠すところもだいたいわかるので(笑)、次の日は元通りになっている感じでした。
笹山  私は小さい頃から「分離不安」があって、私がいない間に母親が強盗にあって殺されちゃったらどうしようとか、ずっと言っていたらしいです。それでも小学校1〜2年の頃は一緒に教室に入ってもらったりしてなんとか通えていました。母は私を学校に送り届けてから仕事に行くのですが、私が不安がるので、しばらくは教室の後ろや廊下で見ていてくれます。それで、私が「もう大丈夫だよ」と合図を送ると仕事に向かうということをずっと続けていました。その後、小5で本格的に行けなくなり、それからは保健室登校や相談室登校をしていました。その頃は、なんでこうなっちゃったんだろう、なんでみんなと同じことができないんだろうと、ずっと思っていました。
 小学校も中学校も入学式は行けるんですが、翌日から体調が悪くなり、お腹が痛い、頭が痛いと言ってすぐ帰ってきてしまう。それで教室に入りにくくなってしまうので、なんで初日にもっと頑張らなかったんだろうと、最初にもっと頑張っていれば、いまも行けてたかもしれない、ということをずっと考えていました。
 母親が働いていたので、小学校のときは放課後に学童保育に行っていましたが、学童も嫌で嫌でしょうがなくて、何回か逃げ出したことがあります。先生が追いかけてくるので、必死に家まで走るんですが、ヘンなところで真面目なので、赤信号はちゃんと止まって待つんです(笑)。その間に追いつかれてしまうんですが、先生はちょっと距離を空けてずっとついてきていました。

◆「なんで行かないの?」と言われるのがいちばんつらかった

霜村  不登校中、印象に残っている親御さんの対応を教えてください。プラスのこと、マイナスのこと、どちらでもかまいません。
三木  印象に残っている対応で「嫌だな〜」と感じたのは、私がお腹が痛い、吐き気がすると苦しんでいるのに、「学校に行け」と言われ、無理やり制服を着せられて、玄関からたたき出されたことです。それと、学校に行ったものの具合が悪くなり、途中で帰ってきたときのがっかりした顔。それがすごく嫌でした。
 なぜ自分がこんなに苦しんでいるのに、平気で「行け」と言えるのか。「なんで行かないの?」と言われても、行きたくても行けないんだよ!――そういう思いを伝えても、やはりなかなか伝わりませんでした。
 その後、母もストレスがたまっていたのだと思いますが、胃潰瘍になったり、ちょっとしたことで泣いたりするようになって、児童相談所へカウンセリングを受けに行ったんですが、そこで「母と私がくっつきすぎている母子密着型だから学校に行けない」と言われたらしく、その日から母は私と口をきいてくれなくなりました。「おはよう」と言っても返事もしてくれません。いま考えれば母も必死だったと思いますが、対応が急に変わったので戸惑いましたし、その相談員に不信感を抱きました。
 当時は自分の部屋がなくてひきこもる場所がなかったし、ネットもないから常に母と一緒に居間でテレビを見ているような状態でした。母からすれば、学校に行かない子どもがずーっとそばにいるというストレスはあっただろうし、私からすると、そのへんの負い目というか罪悪感を抱きつつ過ごしていたように思います。
 父とは仕事が忙しいこともあってあまり会話がなかったのですが、父方の叔母が亡くなって葬儀の話をしていたとき、私は葬儀のあとの会食で気持ちが悪くなると思って、「行かない」と言ったら、思い切り腹を蹴られました。父親から暴力をふるわれたのはこれが初めてで、「あ、殴るんじゃなくて、蹴るんだ」と思ったことを覚えています。それまで父親から、学校に行かないことについてああだこうだ言われたことはないのですが、これまでたまっていた思いが爆発したんだろうと思います。
 でも、プラスのほうの対応もあって、たとえば母は私のためにいろいろ情報を集めてくれて、それが不登校から抜け出すきっかけになりました。児童相談所のなかにいまでいうフリースクールのようなものがあって、そこに行けば出席日数扱いになるというので、中2からそこにほぼ毎日通うようになりました。そのあたりから、先ほど言った母の対応(口をきいてくれない)も変わってきて、プラスの印象のほうが強いですね。
夏川  もともと僕はあまり内にこもるような性格ではないので、当初は母も、本当に体調が悪いんだと思っていたようです。ところがいつまでたっても学校に行く気配がないので、さすがに「あれ? うちの子、どうしたのかな」と思ったようです。それでも「あんた、どうしたの!?」としつこく詰問されるようなことはなく、さりげなく様子を聞いてくれたので、それが自分にとっては救いでした。
 また、母はいろいろ調べてくれたようで、近くの小学校内に不登校の子が通う「あすなろ学級」というのがあるよとか、保健室にカウンセリングの先生がいるから相談に行ってみない?とか聞いてくれました。それも、僕が行きたくないと言えば無理強いはせず、「一日くらい行ってみようかな」と言えば、「じゃあ、行ってみたら?」という感じの対応だったので、非常にありがたかったです。
 その頃、僕は日中家にいる罪悪感や外から聞こえてくる通学時の子どもたちの声から逃れるために、深夜のお笑い番組やラジオ番組にどんどんはまっていき、それを撮りためて、昼間はそれをずっと見たり聞いたりしていました。母親もよく隣で見ていたので、だんだんお笑いに目が肥えてきて(笑)、ある日、親戚の法事に行ったとき、親戚の人たちに「ねえ、バナナマンって知ってる?」とか「面白いのよ〜、アンタッチャブル」とか、まだメジャーになる前の芸人さんの話をドヤ顔で言っているのを見て、ちょっと腹が立ちました。オレが学校に行ってない状況をわかってるのか、と(笑)。まあ、母親もお笑いで息抜きというか救われていたのかな、と思ったりもしたんですが。
 いま考えると、僕が「あすなろ学級」に行っていたとき、母親も「ちょっと行ってくるから」と別の教室かどこかに行っていたんですね。そのときたぶん母親も相談を受けていたんじゃないかと思います。でも、心配そうなそぶりはほとんど見せなかったし、家では非常に明るい母親でした。
 そうこうするうち、おじいちゃんが亡くなりました。やはり人が亡くなると家のなかがひっそりするし、昼間家にいるのが僕ひとりになったので、これまでのようにただゴロゴロしてテレビを見てるだけじゃ悪いなと思うようになって……。その頃、『郁恵・井森のお料理 BAN! BAN!』というテレビ番組があったんですが、それを見ていたら冷蔵庫にあるものを使って簡単にできる!みたいな特集をやっていて、初めて夕飯を作って母親を待っていました。すると帰ってきた母親がびっくりして、「あんた、料理できるんだね」「意外とおいしいね」と言ってくれたので、そこからだんだん家の中で自分の役割を見つけていって、お笑い以外の方法で、鬱屈した気持ちを解消できるようになっていった感じです。
川田  いま思うと、両親には感謝しています。ただ、何十年もたっているのにいまだに消化しきれていないところがあってうまく言葉にできないんですが、母親の対応でいえば、やはり「なんで行かないの?」と聞かれるのが、いちばんしんどかったですね。
 なぜ行けないかなんて、自分でもわからないので答えられない。だから無言でいるしかなくて、「わかんない」というのもなぜか言えないんです。母親が習い事をしているんですが、そのお稽古を休ませるくらい、ずっと無言で向き合っていたこともあります。母が「じゃ、もう行くから」と出かけようとすると、私が「行っちゃダメ」と止める。何か言いたいんです。でも、言えない。そのくり返しで、母はもうお稽古代が無駄になるからと「行く!」と言うんですが、私が「ダメ」と止めて、結局その日はお稽古を休ませてしまいました。それでも私が何も言わないので、母も「じゃ、もういいよ」となって、私は部屋に戻り……というようなことが何度かありました。
 父親は、基本的に私のことについてノータッチなんです。不登校のときも何も言わなかったし、私に対して何を考えているのかいまだによくわかりません。学校に行かなくても生き死にに関係ないから、というような感じで、正直、成績も悪くなかったし、ひきこもっているわけでもなく、学校に行かない以外は普通に生活していたので、「別にいいんじゃない」というような……。
 いまだに仲が良くも悪くもなく、不登校中も母親が土日に家を空けると、父親と2人でお昼ごはんを食べに出かけていました。そういうときも学校の話はまったく出なくて、自分の仕事の話やニュースの話をしたりしていました。
池上  ひきこもりが始まった当初は、母親もなんとか学校に行かせようとしたり、ネットから引き離そうと努力をしてくれたんですが、自分としてはそれがプレッシャーでした。加えて、自分自身も学校に行かないことに対して罪悪感を持っていたので、まわりからも自分からもダブルのプレッシャーで、すごく生きづらい状況でした。
 それが母親に対する暴力というかたちで出そうで、たしか一度、座布団で母親を叩いたことがあったと思います。肩につかみかかったことも……。もうストッパーがはずれそうだったので、ある日、「いまの僕を受け入れてほしい」「ネットも僕の好きなようにやらせてほしい」と泣きながら母親に訴えました。すると、その数日後、「ネットも好きなようにやっていい」「学校も行かなくていい」と言ってくれて、すごく気持ちが楽になりました。
 あとから聞いた話では、地域の不登校の親の会に行って、そこで同じようなお子さんをもつ親御さんに「本人の好きなようにやらせてあげなさい」とアドバイスを受けたみたいです。それからは自分の居場所を家族に認めてもらえて、家族公認でネットゲームに没頭できるようになったので、そうした母の対応にはすごく感謝しています。
 ただ、そこにたどり着くまでは母もうつ病に近いような状態で、すごいネガティブでヒステリックになっていて、かなり言い合いもしました。怒りが爆発して壁の石膏ボードを殴っていたら、母から「どうせ殴るなら、もっと固いコンクリートの壁を殴れば」と言われたこともあります。「そんなことしたら腕をケガしちゃう」と言ったら、「だったら自分を殴りなさい」と言い返され、そのときはさすがに腹に据えかねてしばらく口をききませんでした。1週間くらいして母もあやまってくれましたが。
笹山  小学校低学年で不登校になり出したときは、毎日泣きながら学校に行っていたので、それをいつもそばで見ていた母親はあまり厳しいことを言わなかったのですが、父親は家にいるときの元気な私の姿しか知らないので、毎日、「まだ行ってないのか」みたいな電話を家にかけてきて怒るので、それがものすごく嫌でした。でも、母親といろいろ話し合いをしたみたいで、高学年くらいになると何も言わなくなりました。
 印象的だったのは、小学校5、6年の運動会のときのことです。ずっと4階にある相談室の窓から練習風景を見ていて、うらやましいなとか、ほんとは私もそこに入れてたのかなとか、複雑な思いでいっぱいでした。そうして当日になると、家と学校が近いので運動会の歓声や音楽が聞こえてくるんです。それで私が落ち込んでしまうというのをわかっていたんだと思いますが、父と母が相談して、「じゃあ運動会の日は旅行に行こう」ということになりました。5年と6年の2年間だけでしたが、運動会の日はみんなで軽井沢に行くのが家族行事のようになって、旅行の間は学校のこともすっかり忘れて、ほんとに楽しかったです。
 中学生になって適応指導教室に通うようになってからは、家にいることももっと増えたのでユーチューブにはまってしまい、毎日ユーチューブで動画ばかり見ていました。最初の頃はうるさかった父親も、どうせならパソコンじゃなくて、もっと大きな画面で見ればいいよと、ユーチューブ機能のついたテレビをわざわざ買ってくれて、それからはずっとユーチューブ生活、みたいな(笑)。「中学校からはユーチューブで育ったね」と言われるくらい、毎日何時間も見ていました。

◆母子密着、分離不安をどう考えるか

霜村  みなさんのお話を伺っていて、お父さんは、お母さんほど子どもとずっと一緒にいるわけではないので、それがほどよい距離感となって、子どもにとって助けになっている部分があるのかな、と感じました。
 一方、お母さんとの関係は、たとえば三木さんのお話にあった「母子密着だから少し離れましょう」とか、笹山さんは「分離不安」があってお母さんが学校についていくというお話がありましたが、ここで齊藤先生に、お母さんとの関係についてお話をしていただきたいと思います。
齊藤  ゲストのみなさん、貴重なお話をありがとうございます。
 発言の機会をいただいたので、ここで不登校のお子さんとお母さんとの関係について少しお話ししたいと思います。私がこれまでご相談を受けてきた経験からいうと、お父さんからの相談は増えてきてはいますが、やはり日常的にはお母さんが対応されているご家庭がまだまだ多いと感じています。そういう状況のなかで、「母子密着」「父親不在」ということがよく言われ、それが全面的に“悪いこと”のような印象を与えがちです。
 しかし、そもそも私たちは十月十日(とつきとおか)お母さんのお腹のなかにいて、物理的に一体化した状態から始まっているわけです。生まれてきてからも、しばらくはひとりで食べることも歩くこともできないので、お母さんと密着し一体化していないと子どもは生きていけません。このときに、第1部の講演でもお話があったように、お母さんとの間に「基本的信頼感」が構築され、「愛着」といったものが形成されていくといわれています。この基本的信頼感や愛着をベースにして、そこから成長するにしたがって、「個」として、「ひとりの人間」として、自立に向かって歩んでいくわけです。
 笹山さんのお話に出てきた「分離不安」という言葉は、文字どおり子どもが親と離れることに対して不安な反応を示すことをいいます。お子さんが小さい頃のことを思い出していただけば、おそらく多くのお母さんが「トイレまで私のあとをついてきて困っちゃった」とか「ちょっと姿が見えないと大泣きする」「足にまとわりついて離れない」といったわが子の行動に覚えがあると思いますが、こういう反応を分離不安といいます。これは、お母さんとの間にきちんと愛着関係ができているからこそ起こる反応で、しだいに、「見えなくてもお母さんはそばにいる」「自分のことを見守っていてくれる」と理解できるようになり、離れることに不安を覚えることも少なくなっていきます。
 小さい子が公園の砂場でお母さんとちょっと離れて遊んでいて、他の子におもちゃを取られてわ〜ん!となったとき、お母さんのところに走っていって、よしよししてもらうといったことがよくあります。ふだんはお母さんと離れていられるけれど、何か不安になったり不快なことがあったとき、安心・安全な場所を求めてお母さんのところに戻ってくるわけです。
 不登校の場合もこれと同じで、第1部で、「不登校になれる」ということは安心・信頼できる親御さんがいるから、というお話がありましたが、分離不安が生まれるのも安心できる親御さんがいるからであり、自分の不安・不快な感情を親御さんに出せるということでもあります。そういう意味で、「分離不安」「母子密着」だから、親と離れなければいけない、離れないと解決しないということではなく、不安からそういう状態になっているのであれば、その子は何が不安なのか、どうしたら安心できるのかを考えていくべきであり、まずは安心感を与えることが第一だと思います。
 これらを前提として、そのうえで、一歩外に踏み出すために必要なスキルなどがあるとしたら、そのあとに育んでいく必要が出てくるのだろうと思います。

◆不登校だったために、その後、苦労したことは?

霜村  かつて不登校だった方々にお話を伺うと、「不登校をしてよかった」「不登校を経験したからいまの自分がいる」というお話がよく出てきます。でも、不登校によるマイナス面、つまり、不登校を経験したためにこんなことで苦労した、困ったというお話はめったに聞く機会がありません。
 そこで、ゲストのみなさんにお聞きしたいと思います。まず三木さんから、不登校を経験したために苦労したこと、困ったことがあったら教えてください。
三木  苦労したことといえば、やはり勉強です。中1のゴールデンウイーク明けから中3まで学校に行ってないので、中学校で学ぶべきことが抜け落ちているんです。
 そのため高校受験もうまくいかず、落ちてしまいました。その後、高校再受験の予備校に通って勉強し、1年後に再受験しようとしたら、当時は一浪した中学生を受け入れてくれる高校がなかったんです。そこで、かあちゃん――すみません。ふだんどおりの呼び方でお話しさせてください――が分厚い高校受験案内を買ってきて、学校に片っぱしから電話をして事情を話すと、「それでは当校を受験してみますか」と言ってくれた私立高校が1校だけあったので、そこに入学しました。
 高校入学後も、当時は英語の授業は筆記体が中心だったのですが、中学校で習っていないので筆記体がわからなくて苦労しました。授業で筆記体をノートに書き写して、帰宅後に必死で復習しましたが、どうせ英語なんか話す機会はないだろうと英語の勉強はあきらめました。ところが大学受験のとき、どの大学の受験科目にも英語があって壁にぶつかり、受験は全滅でした。その後、専門学校に進み、現在の仕事に就いたので後悔はしていませんが、いまでも英語は苦手です。
 あとは、友だちがいないのが苦労というか……。自分で言うのもなんですが、小学校の頃は人気者のほうだったんです。ところが、中2か中3のときに小学校の同窓会があって、私には声がかからなかったんです。それがすごく悔しくて……。学校に行ってないので同窓会にもたぶん行かなかったとは思うんですが、声もかけてくれなくなっちゃうんだな、と。そのとき、不登校って悪いものなんだな、というか、自分のなかで負い目のようなものを感じた記憶があります。
 そのときの悔しさや「友だちをつくりたい」という思いが高校進学を具体的に考えるきっかけになったので、必ずしもマイナス面ばかりではないのですが、それ以降、不登校をした自分は「普通と違う」とか、恥ずかしいという思いが出てきました。
 高校入学後も一浪したことは内緒にしていて、同級生から「中学どこ?」と聞かれたときは、「オレ、大阪から引っ越してきたんだ」と答えて、「関西弁じゃないよね」(笑)と突っ込まれたりしましたが、なんとかごまかしていました。その後、生徒手帳を落としたことがあって、かあちゃんが生真面目に生年月日をしっかり記入していたので、どうもこの学年にひとつ年上の生徒がいるらしいという噂が広がり、内心ヒヤヒヤしていました。卒業証書にも生年月日が書き込んであったので、クラスに戻ってみんなで見せ合ったときは、生年月日の「昭和○年」のところを指で隠したりしていました。
 いまでこそ、こうして笑って話せますが、けっこう長い間、「不登校って恥ずかしい」という思いを引きずっていたように思います。
夏川  僕も勉強はあまり得意ではなくて、とくにローマ字が苦手です。それで困るのがパソコンのローマ字入力で、保護者向けのお便りを作るときも、「ズ」と「ヅ」の違いとか、小さい「っ」が出せなかったり、入力作業にかなり時間がかかってしまいます。
 もともと勉強が好きではなかったので、不登校していなくても同じだったかもしれませんが、漢字の読み間違い、書き間違いもよくあります。短大のときに「自分の好きなこと」というテーマでレポートを書けという課題が出て、僕は絵を描くのが好きなのでそのことを書いたのですが、先生に「きみのレポートはほんとに素晴らしいね。でも、漢字の間違いは気をつけてくださいね」と言われてよく見たら、「描く」がすべて「猫く」になっていたんです。「ネコく」ってなんなんだ、という(笑)。
 それと、書類を作成することが苦手です。以前は保育園で仕事をしていたのですが、保育士というのは、毎日、子ども一人ひとりの様子をきめ細かく記録しないといけない。指導案についても、年間案、月案、週案、日案と立てる必要があって、一日の保育の流れについても構成案を作成しなければいけない。そもそも筋道立てて文章を組み立てることが苦手なうえに、すべて締切があるので、しょっちゅう書類をため込んでウンウン言っている時期がありました。その頃は、朝6時まで書類づくりをし、30分寝て、また出勤するといった状態が続き、ヘトヘトになっていました。なぜ、こんなに書類作成が苦手なのかを考えると、不登校に行き着きます。あのときちゃんと学校に行って真面目に勉強していたら、この程度の書類の提出を苦痛に感じることはなかっただろうと。それが社会人になって初めてぶつかった壁でした。
 当時はそれがつらすぎて保育園を退職し、保育の仕事はもう二度とやらないと決めて何年間かフリーターをしていたのですが、その後、幼稚園の仕事を紹介されて、その頃には自分の気持ちもリセットされていたので、じゃあ、一から頑張ろうといろいろ勉強し直して、いまは書類をためることもなくなりました。
川田  私の場合は、学校の勉強や成績の面ではそんなに苦労はしませんでした。逆に、不登校中はテレビやネット、本やマンガなどから知識を吸収する充電期間のような感じだったので、いまだにヘンな知識というか雑学に詳しいところがあります。
 ただ、いまだにそうですが、それほど親しくない知り合いに「中学校時代はどうだった?」と聞かれたとき、「いやー、あまり行ってなかったしなあ」と言うのも雰囲気がこわれるかなと思い、ヘンに気をつかって話題を変えようとしたり、できれば不登校のことは言わないで済まそうとしているところはあるかなと思います。
池上  僕も、三木さんや夏川さんと同じく勉強で苦労したほうのタイプです。高校2年か3年のときに思い切っていい大学を受験しようと思って、近くの予備校の体験授業に行ってみたのですが、英語の授業で先生が「この問題、みなさんわかりますよね? 受験生なら常識ですよね?」と言っている内容が僕にはまったくわからなくて、いつ当てられるかとすごく怖くて、授業が終わったあとすぐ予備校の先生に「受験はあきらめます」と断りを入れて帰ってきました。
 結局、高校の公募推薦で大学には進学したのですが、入学後も漢字とか日本語の部分で苦労していて、だったらいっそ新しいことを勉強しようと思って、英語、スペイン語、ロシア語などいろいろな言語にチャレンジしました。ただ、外国語の授業でもたまに和訳の宿題が出ることがあって、それを授業で読み上げるときに漢字を読み間違えたりしたことも多々あります。
 あと、僕はいまでも朝が弱くて起きるのがつらいんですが、それはもしかすると不登校中に昼夜逆転のめちゃくちゃな生活を送っていたので、そのせいで自律神経が少し崩れてしまったのかなと思ったりしています。
笹山  現在、私は大学で中国語を勉強していますが、小中の9年間まともに勉強していなかったので、中国語でも主語とか述語とか文法の知識がけっこうあいまいで、こういうところに不登校の影響が出てくるのかと感じています。
 それと、友だち同士の会話で、中学校の修学旅行でどこに行ったとか、体育祭は楽しかったよねといった話になると黙って聞くだけになってしまいます。先日、成人式があったのですが、成人式のときの同窓会は中学校の頃のメンバーとやることが多くて、私は中学校にはほとんど行っていないので招待もされなかったのですが、それは仕方ないことかなと思っています。
霜村  5人の方々のお話を伺うと、やはり不登校中でもちゃんと勉強させないとダメかなと感じた親御さんもいらっしゃるかと思います。しかし、多くの場合、勉強への意欲は最後の段階で出てくるものであり、それ以前に心の安定をどう図るか、社会性をどう育てていくかといった課題が先にあって、その力がついてくると、勉強面の遅れは自力で解決していく、あるいは少し恥ずかしい思いをしながらもそこを乗り越えていく力が必ず生まれてきます。あまり焦って勉強をさせようとすると、かえって荒れてしまって回復が遅くなることもありますので、その点をご注意いただければと思います。

◆立ち直りのきっかけは?

霜村  立ち直りのきっかけになったことがあれば教えてください。
三木  きっかけは、児童相談所の相談員の先生です。ある日、その先生から「そろそろ学校に行ってみないか」「放課後、オレが家まで迎えにいくから準備しといて」と言われて、先生と一緒に学校までの道のりを歩く練習から始めました。最初の日は学校までの距離の3分の1、2日目は3分の2、そして3日目に校門までたどり着きました。
 「校門まで来たんだから、下駄箱のところまで行ってみようよ」と言われ、下駄箱まで来たら、「職員室をのぞいてみようか」と言われたので職員室に入ると、校長先生、担任の先生、各教科の先生方が勢揃いしていて、「三木くん、よく来たね!」と拍手で迎えてくれたんです。それがうれしくて恥ずかしくて……。そして、ここまで準備して私を元気づけようとしてくれた先生ってすごい人だな、この先生の期待を裏切らないようにしようと思って、学校に行きはじめました。ただ、教室に入れるようになるのは、もう少しあとのことで、最初は保健室に通っていました。
 その頃、クラスの友だち数人が保健室に入ってきて、「三木、教室来いよ〜」「行けないよ〜」といったやりとりをしているうちに、ひとりが私のカバンをつかんで教室に持っていってしまったんです。カバンがないと帰れないと思って、なんとか教室の前まで行き、息を止めてガーッとドアを開け、机の上のカバンを取ったらダーッと引き返して廊下に出たとたん、「え? いまの何?」と教室がザワザワして……。そのときのザワザワ感はいまでも覚えています。たぶん担任の先生の仕掛けだろうと思いますが、それが教室に入れるようになったきっかけです。
霜村  ありがとうございます。本人の心の準備が整っていない状態だと、かなり荒療治かなという感じもするのですが、そのへんの先生方の見立てが絶妙で、「いまならできる」というタイミングでそれをしてくださったのかなと思います。
 夏川さんの立ち直りのきっかけは?
夏川  ひとつのきっかけとなったのが修学旅行です。
 不登校の原因となった不良グループの生徒たちは、僕にとってものすごい恐怖の対象で、児童相談所のカウンセラーにも担任の先生にも「彼らには絶対会いたくない」と常々言っていました。でも、修学旅行には行きたいと希望を出したところ、「どうしたら夏川くんは修学旅行に行けるかな?」と聞かれたので、正直に「あの怖いグループがいなければ行ける」と答えると、じゃあみんなで話し合いをしようということになって、僕の家に不良グループと先生がやってきました。
 僕は、彼らとはとても目を合わせることができなかったけど、「君たちが怖いから僕は学校に行かないし、修学旅行にも行かない」と伝えました。すると、彼らはまさか自分たちが原因で僕が不登校になったなんて思いもしなかったらしく、「あ、じゃオレら修学旅行、行かない」と言ったんです(笑) 予想外の展開に驚くと同時に、彼らがあまりにもあっけらかんと「行かない」と言うので、僕も「いや、一緒に行こうよ」と言ったりして(笑) そんなわけで修学旅行に参加することができ、その流れで卒業式にも出席できました。それが立ち直りのきっかけになったと思います。
 それ以外にも、毎日通っていた「あすなろ学級」の先生、週1回通っていた保健室の先生、カウンセラーの先生、毎朝、「ナッツ、学校行こうよ」と迎えに来てくれた幼なじみの友だち、その友だちが連れて来てくれた別の友だちなど、まわりに自分を受け入れてくれる人たちが少しずつ増えていったことが大きかったと思います。
 中学卒業後、サポート校に通うようになり、自分と同じような経験をしたクラスメートと学校生活を送るなかで、中学時代の緊張感やモヤモヤがだんだん緩和されていきました。中学校時代は自分のことを理解してくれない人たちとの関係で苦しんできたけれど、サポート校はクラスメートや先生も含めて、何も言わなくても理解され、理解できるような気がしました。それが精神的なリハビリ期間として役立ったし、自然と友だちもできたので、立ち直りへの大きな転機になったと思います。
川田  私の場合は、学期の始まり、学年の始まり、転校した直後など、節目が来ると再登校できるんですが、あとが続かないんです。中学校の3年間は担任が同じ先生で、個人的には変わってくれたほうがよかったのですが(笑)、その先生が不登校ぎみの私に配慮してくれたのか、中3のときには小学校から仲の良かった友だちや部活で気の合う友だちを同じクラスにしてくれたんです。でも、そういう大人の意図が見えてしまうと、逆に、その仕掛けどおりに登校するのが嫌になるというか……。
 でも、行きたかった修学旅行にはなんとか行くことができたのですが、修学旅行が終わるとあとはもういいかなという感じで、また行かなくなるんです。
 高校の入学式にも行きましたが、もう1日頑張ってみようと2日目に行くと、なんだか学校が合わないなと思いはじめて行けなくなるんです。それで1年の3学期に転校したのですが、転校先でも最初はテストだけ受けに行くような感じでした。その後、少しずつ学校やクラスの雰囲気が見えてきて、この学校なら通えるかなと思いはじめました。
 クラスメートもみんないい人だったし、雰囲気もいいし、担任の先生も友だちみたいでいいなと思ったので、だましだまし通っているうちに、なんとなく普通に通えるようになりました。先生たちが「来ても来なくてもいいよ」という感じでプレッシャーが少なかったし、たまに登校したり午後から授業に出ても、自然に受け入れてくれるところがよかった。それが立ち直りにつながっていったのかなと思います。
霜村  通常、高校では欠席日数が年間の3分の1を超えると留年になってしまうのですが、転校された学校は出欠についてはゆるやかだったんですね。
川田  はい。転校先が通信制サポート校だったので、課題のレポートさえきちんと提出していれば、登校できなくても単位は取れますし、進級もできました。自分のペースで通えるところが自分には合っていたんじゃないかと思います。
霜村  次は池上さん、きっかけはなんですか?
池上  最初の立ち直りのきっかけは、母がネットゲームをやることと学校に行かないことを認めてくれたことだと思います。それからは自分の居場所ができたし、家族との関係性も大きく変わり、母に誘われて外に出る機会も増えました。
 そして、そろそろ中学卒業という時期に、母が僕の通えるような学校を2〜3校探してきてくれました。おそらく少し前の僕なら、母の言うことなど聞かなかったと思いますが、そのときは素直に学校見学について行き、そのうちの1校に進学しました。
 入学後もほとんど登校せず、あいかわらずネットゲームに没頭していましたが、サッカー部の顧問の先生に誘われてサッカーだけやりに学校に行くようになりました。毎日午後3時頃に電車に乗って4時頃学校に着いて、サッカーだけして、みんなで牛丼を食べて帰る、みたいな生活でした。でも、そこで友だちができて先輩とも仲良くなれて、少し学校との距離が近くなったような気がします。
 その後、学校のアクティビティで「ヤングアメリカンズ」という、アメリカのパフォーマンスグループと一緒にミュージカルを上演するイベントがあるのですが、わが家がそのメンバーのホームステイ先を引き受けたんです。そのときの経験が、海外の文化に興味をもったり、もっといろいろ勉強してみたいという気持ちが芽生えるきっかけになりました。そこからだんだん上昇気流に乗っていった気がします。授業にも少しずつ出るようになり、友だちも増え、将来のことも考えはじめました。
霜村  笹山さんはいかがですか?
笹山  小学生のときは「学校に行かなければ」というプレッシャーがものすごく強かったんですが、中学生になって適応指導教室に通うようになってからは自分のペースで通えばよかったのでプレッシャーも少なく、だんだん教室に行くのが楽しくなり、適応指導教室の遠足やイベントにも参加するようになりました。小学校では緊張状態が続いて素の自分を出せなかったのですが、適応指導教室ではありのままの自分を出せるようになったのがいちばん大きなきっかけだと思っています。
 高校は一般的な学校は受験できないだろうと思ったので、チャレンジスクールなど、いろんな学校を8校くらい見学しました。実際に行ってみると「ここの雰囲気は合わないな」とかすぐにわかるんです。そうやって消去法で1校ずつ検討していって、最後に残った、ここなら通えそうかなと思った学校に決めました。
 中学校のときに初日に頑張れなかったことがものすごく悔しかったので、高校は這いつくばってでも行こうと思っていました。でも、初日に学校の最寄り駅に着いたところで駅から出られなくなってしまって、構内のトイレから泣きながら母親に電話したら、副校長先生が迎えにきてくれました。最初の頃はやはり朝から通うのは難しくて、だいたいお昼頃に登校していましたが、「無理しなくていいよ。自分のペースで行きたいと思ったときに登校すればいいから」という対応だったので救われた感じで、だんだん学校って楽しいんだと思えるようになり、2年生からはほぼ皆勤賞でした。
 小学生の頃は、高校には絶対行かない、まして大学なんか行くわけないと思っていましたが、大学にも行ってみたいと思えるようになり、いま大学で中国語を勉強しています。高校の修学旅行で台湾に行ってホームステイをしたのですが、別れるときにいろんな思いが重なって大号泣してしまいました。お世話になったご家族に中国語でお礼を言いたいという、そのときの強い思いが現在の大学での勉強につながっていると思います。

◆あなたを支えてくれた人は?

霜村  最後の質問になります。不登校中、みなさんを支えてくれた方はいますか? それはどなたですか? まず、三木さんからお願いします。
三木  私の頃は不登校の子どもが少なかったし、理解がまったくない時代でもありました。それでも児童相談所の相談員の先生、保健室の先生はずっと私を受け入れてくれました。そして、この人たちと引き合わせてくれたのはかあちゃんです。また、私が高校に行きたいと言ったとき、決して裕福ではなかったのに予備校や私立高校の費用をポンと出してくれたのはとうちゃんでした。私がいまここにいるのは、ふたりのおかげです。だから、支えてくれた人は両親です。
夏川  僕も母と、そして亡くなったおじいちゃんに感謝しています。もう叶いませんが、おじいちゃんは僕のことをどう思っていたのか聞いてみたかったです。なんの恩返しもできなかったという思いがあります。母は5年前に再婚して第2の人生をエンジョイしていますが、たぶん当時は大変な思いをしていたんだろうと思います。
 中学校に行っても、高校、大学に行っても、就職しても、人間、どんなところにいても必ず壁にぶちあたるものだと思います。それに立ち向かっていく力、乗り越えようとする力が生きていくうえでいちばん大事なものだと、不登校を経験して気づくことができたので、母、おじいちゃん、友だちなど、いままで支えてきてくれた人たち、そしてこれから出会う人たちにも感謝して生きていきたいと思います。
川田  みなさんいいお話をされていて……ごめんなさい、私には、支えてくれた人はいません。自分で自分を支えている感じで、人に支えられていたとか、支えてほしいという思いは一切ありませんでした。
 もちろん親にも友だちにも本当に感謝していますし、友だちとは「あの頃、学校に来てなかったから知らないでしょう」と率直に言い合える関係ですが、当時、「学校に行こうよ」と毎日のように家に寄ってくれたときはプレッシャーでしかなく、バリアを張って完全に拒否していました。自分のために何かしようとしてくれることが受け入れられず、「自分でなんとかするからやめてよ」という感じでした。「ひとりで立ち上がりたいから、ひとりにしてほしい」と思っていました。
池上  支えてくれたのは、やはり母です。今日は母のことばかり話しているのでマザコンと思われるかもしれないですけど(笑)、マザコンなんですよ(爆笑)。
 いま、「母孝行」がマイブームで、去年は秋田に連れて行き、今年は箱根に行ってきました。いままでずっと僕を支えてくれた母に対して、これまでの感謝の気持ちを亡くなるまでに伝えたいと思っているので、母孝行を続けます。
笹山  私も母にいちばん支えてもらったと思っています。私の不登校時代のネガティブな言葉を、全部ポジティブな言葉に変えてくれたのは母でした。
 私の両親は、娘が不登校だというのに信じられないくらいポジティブなんです。運動会で嫌な思いをするなら、気分を変えて家族旅行をしようと考えることでもわかるように、普通、娘が不登校になったら落ち込んだりすると思いますが、そんなことはまったくないんです。おかげで私もだんだんポジティブになり、いまの大学の友だちには「なんの悩みもなくて、毎日楽しそうだね」と言われるほどです。私をそういうふうにしてくれたのは、やはり母の影響がいちばん強いと思っています。
 父は、最初の頃は「今日も行かないのか」と会社から電話をかけてきて、それがトラウマになるほどだったけど、母が私に任せてと父がうるさく言わないように壁になってくれたのかなと思います。それ以来、ポジティブなことしか言わなくなりました。
霜村  今日は、不登校を経験した子どもたちの側の当時の視点からお話を伺いましたが、その裏側には、お母さんお父さんの、押したほうがいいのか引いたほうがいいのか、ああしたほうがいいのかこうしたほうがいいのかといった、たくさんの試行錯誤があったのだろうなと思いました。
 いまでこそみなさん、親御さんにとても感謝していると話してくださいましたが、おそらく当時はそんなふうには感じられなかったのではないでしょうか。不登校のただなかにいるときは、子どもも親も不安でいっぱいです。そして、大人がこうしたほうが解決するだろうなと考えている不安要素と、子どもがこんな気持ちをどう乗り越えたらいいのということで解決したいと思うことには、どうしても差ができてしまいます。子どもというのは「お母さんは、私の気持ちの解決を優先してくれないんだ」というのが見えてしまうと、気持ちが遠ざかってしまうところがあって、そこがすごく難しいなと思います。
 でも、大人だって自分の気持ちを解決したい、不安から脱したい。先の見えない穴のなかでどちらに進んでいけばいいのか途方に暮れたり、暗闇のなかで方向もわからずに進んでいく心細さはものすごくつらいものがあります。
 この状態がいつまで続くんだろうと考えているときに、そこを脱した方々の話を聞くことは、私たちに「出口があるよ」と教えてくれるような、この先に少し光が見えるような、そんな前に進んでいく勇気やエネルギーを、今日ここでいただいたように感じました。
 話しにくいことも多々あったと思いますが、飾らずわかりやすく話してくださったみなさんに心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。(拍手)

◆5人のゲストからのメッセージ

欲しかった言葉

三木 徹

 不登校になってからいちばん言われた言葉は「頑張れ」でした。
 背中を押してくれるような言葉ですが、私にとってはとてもつらい言葉。学校に行こうと思うとお腹が痛くなり、夜になると明日は行かなきゃと不安になる日々の中、頑張りたい気持ちはあるけれど頑張れない私にとっては聞きたくない言葉でした。

 母親と学校が相談し、紹介してくれた児童相談所。そこで不登校の支援をしてくれている先生が驚く言葉を言ってくれた。
 「大丈夫」
 この言葉には正直私も驚いた記憶があります。不登校になった私を傍で見ていた両親、近くに住む祖父母、学校の先生、近所の人、友人……そして私。誰もが大丈夫ではない状態だと思っていたときに出た言葉。
 「大丈夫、ここまで来れたんだから」
 この言葉にどれだけ気持ちも身体も楽になったか。おそらく私を支えてくれた人も救われた言葉だったと思う。

 登校に向けて考えるようになってからも先生は「大丈夫」と言い続けてくれました。
 学校への道のりに不安を抱える私に「大丈夫、俺が一緒に歩くから」
 歩いている途中で断念したときも「ここまで歩けたんだから大丈夫」
 なんとか学校までたどりついたときも「もう大丈夫。不登校とは言えなくなったね」

 保健室登校を始めてからは児童相談所に行くことはなくなり、先生にも会えなくなりましたが、「大丈夫」という言葉がなければ、きっとずっと「頑張れ」と言われ続けてつぶれていた気がします。多くの人に「頑張れ」と言われました。声援にも聞こえましたが、私の欲しい言葉ではありませんでした。欲しかった言葉は「大丈夫」。

 この言葉をくれた先生に憧れ、私は同じような仕事に就くことができました。
 本当に母親には迷惑をかけたと思っています。泣かせたことも、喧嘩したことも、身体を悪くさせたことも。そんな母に「何かあったら言ってね、大丈夫だから」と言えるようになったのも、すべて先生との出逢いがあったから。
 父が倒れたとき、「大丈夫、俺がいるから」と。ずっと不登校を負い目に感じていた私。「大丈夫」よりもっと欲しい言葉がありました。母からもらった言葉。
 「あなたが居てよかった」
 先生、ありがとう。やっと恩返しができました。先生に会って報告したいなぁ。

認めてくれた家族がいたから

夏川正幸

 僕は中学生2年の夏に同級生のトラブルに巻き込まれ、外の世界(不良のいる家以外の場所)を怖がり、怯え、考えすぎて、不登校の道を選びました。
 同級生に脅されること、威圧されること、弱い者は強い者にバカにされ、正直者がバカをみる場所なんか行けるわけがないと本気で思っていました。
 最初はお腹の痛みを理由に休んでいましたが、途中からは自分に暗示をかけていたのかもしれません。気がついたら病人の顔に変わっていました。

 いちばん心配をかけたのは母と祖父でした。理由があったにしろ、昼間、家にいる気まずさと自分や現状にイライラに当たり散らした時もありました。「僕は悪くない」と自分勝手なことを思って過ごしていました。
 祖父は何も言わずに一緒にご飯を食べてくれました。母とケンカをしたら仲裁してくれました。夏に大量のアイスを買ってきて一緒に食べました。こんな僕を怒らずに見守ってくれました。
 母は一緒にお笑いのテレビを見てくれました。ご飯を作ってくれました。たまに休みにドライブに行ってハンバーガーを買ってくれました。たくさん心配かけてしまいました。

 思い返すと2人の家族が、ひきこもりだから、学校に行っていないからと特別扱いするのではなく、自然体で接してくれたことが何よりの優しさだと深く感じます。いまこうして僕がいられるのは、認めてくれた家族がいたからだと思います。
 10代、20代の頃には、歯がゆく思い出したくない思い出が誰にでもあります。僕のひきこもりもそのひとつだと思えました。
 気がつくまでに本当にずいぶん時間がかかりました。
 ひきこもりが終わっても、人生にぶつかることの連続。友だち、社会、ご近所さん、こわいことだらけです。
 その中で感じて、考えて、落ち込んだり、笑ったりしながら、どうか人並みな幸せを知ることができることを信じてあげてください。
 偉そうに本当にすみません。

私を支えてくれたモノ

川田佳子

 今から考えれば、人でもモノでも、様々なものに支えてもらっていたのだと思います。
 ただ、世間一般にいう「普通」に登校しているはずの時間、私にはその「普通」が難しく、家にいる時間が長くありました。
 罪悪感にさいなまれる時間。
 そんなものを抱えている私には、「支え」というものはプレッシャーにしか感じていませんでした。
 「普通」のことができる人に、「普通」のことができない私のことが分かるはずはない。
 見当違いなところに手を差し伸べられ、支えられるくらいなら、弱いところがどこなのかをいちばんわかっている自分が、自分自身で補強すればいい。
 そう考えていました。

 そんなかたくなな私にも変わるきっかけがありました。
 家族、友達。
 私を理解し、支えられるようにと手を伸ばし続けてくれました。
 テレビ、ネット。
 後の人生を豊かにする様々な知識を吸収しました。
 そんな時間を過ごしたからこそ今、私はここに立てているのだと思います。

私を支えてくれた人

池上拓巳

 私は3年近くの間、不登校を経験しましたが、その時期にいちばんの支えになってくれたのは、母でした。
 当時いろいろとつらいことが重なり、現実から逃れるようにパソコンのネットゲームに没頭しはじめ、少しずつ学校へ行かなくなり、やがて不登校、ひきこもりになりました。
 ネットの世界に自分の居場所を見つけた私ですが、毎日、自分が「普通」に学校に通って勉強をしていないことに対する罪悪感を抱えて苦しんでいました。
 母は私に対する危機感や心配から、どうにかネットを断ち切って現実社会に引き戻そうと、学校に行かせようとしたり、ネットの回線を切ったり、策を講じていたのですが、それが私にはとてもつらかった。

 ところが、ある日突然、「あなたの好きなようにやっていい。そう決心したの」と宣言をされました。地域の不登校の親の会で助言を得たようなのです。ここから、私たち親子の関係が変わったように思います。
 正式に承認を得た私は心おきなくネットゲームを楽しめることになったわけですが、母のアドバイスを素直に聞き入れるようになり、やがて一緒に外出をすることもありました。そうして、母と二人三脚でゆっくりと社会に復帰していきました。
 あの時に母が私の居場所を認めてくれたことを、今では心から感謝しています。

私を支えてくれた人

笹山美奈

 不登校だった小1から中3までの間、私はたくさんの人に支えられてきましたが、その中でも常に近くで支えてくれたのは母親です。

 小学1年生の初登校日、学校に行くのがつらく腹痛が起きてしまい、学校に向かっている途中でしたが家に帰ってきてしまいました。
 それからは、小学校に着くまでの、歩いてたった15分の道を1時間もかけて学校に行ったり、着いても門から先にどうしても入れず校舎裏で気持ちが落ち着くまで四つ葉のクローバー探しをしたり、ときには大泣きしながら家に帰ったこともありました。そんなとき、私の隣にはいつも母が一緒にいてくれました。

 毎日のように泣いてマイナスな言葉を発する私に対して、母はすべてプラスの言葉に変えてくれました。学校のことで言い合いになることもたくさんありましたが、母が毎日明るくポジティブでいてくれたおかげで、時間はかかりましたが私も徐々に気持ちが安定していったのだと思います。母の大丈夫という言葉には今でも支えられています。


 

ページの先頭へ