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登進研バックアップセミナー42・講演内容

 

さよなら不登校―あなたを信じてよかった

2004年2月8日に開催された登進研バックアップセミナー42の第1部「さよなら不登校―あなたを信じてよかった〜2組の実の親子のすれちがい、せめぎ合い、助け合い、そしていま〜」の内容をまとめました。

 

ゲスト

A子さん(21歳、大学2年生)+A子さんのお母さん(以下、A母)
B男くん(21歳、大学2年生)+B男くんのお母さん(以下、B母)

司会

海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部学事課長)

※ゲストの方々の学年(年齢)は、セミナー開催時のものです。

 

◆きっかけは「いまでもよくわからない」「いじめが原因」

     

海野

 今日は2組の親子をお招きし、不登校中のさまざまな出来事についてお話を聞かせていただきます。つらく苦しい体験を、しかも親と子が揃って大勢のみなさまの前で話すことは、たいへんな勇気と決意が必要です。参加者のみなさまには、ゲストの方々のその勇気と思いを温かく受けとめていただければと思います。

 では、最初に自己紹介をかねて、不登校になるまでの経緯について聞かせてください。

B男

 B男と申します。21歳です。現在、大学で日本史を勉強中です。当時の家族構成は、父母、弟、父方の祖母の5人家族です。
 不登校のきっかけは、小学校6年のときにクラス全員からいじめられ、それでもなんとか登校していましたが、中学入学後も、私がいじめられていたという情報が一部の不良グループに伝わり、また同じような目にあいました。私は、学級委員等になることが多かったのですが、そういう目立つ存在とかリーダー的な感じが気に入らない生徒たちによって追いつめられ、中2の後半から不登校になりました。
 実は、私よりも先に弟が小4の頃に不登校になり、「弟も休んでいるんだから、私も休もうかな」といった気持ちもありました。そのとき母は、「じゃあ、休んでもいいんじゃない」と認めてくれたので、精神的には助かりました。

海野   お母さん、その頃の心境はどんな感じでしたか?
B母

  B男の母です。よろしくお願いします。いま息子から話があったように、この子が休みはじめたときは「これはしかたないな」という気持ちで受けとめました。
 ただ、次男のほうは小4でしたし、友だちも多く、外で活発に遊ぶ子だったので、とてもショックでした。最初はわけがわからず、無理やり学校に行かせたりしました。朝、突き放すように家から放り出したこともあります。いまでも次男のことは思い出すとつらいです。
 長男の場合は、中学校の養護の先生が不登校にとても理解のある方で、よく相談にのってくれて、「具合が悪かったら休ませてください」とも言われていたので、自然に受け入れることができたのかなと思います。

海野  次に、A子さんに自己紹介をお願いします。
A子

  A子と申します。現在21歳で、この春から大学3年生になります。当時の家族構成は、父母、姉、父方の祖父母の6人家族です。
 不登校になりはじめたのは小学校1〜2年の頃ですが、きっかけはいまでもよくわかりません。最初の頃は、教室の隣にあるプレイルームという部屋に母と一緒に通っていました。休み時間に友だちが遊びに来てくれたりしましたが、隣の自分のクラスの教室には一歩も足を踏み入れることができませんでした。その後、小2で引越しをして、新しい小学校に通いはじめましたが、そこでも五月雨登校の状態が続き、卒業式にも出席できませんでした。
 中学校では気持ちを新たに頑張ろうと思っていたので、中1のときはほぼ休まず通うことができましたが、中1の後半にまた行けない日が出てきて、中2のときはまったく登校していません。中2の頃は、適応指導教室に通っていたこともあります。私と同じような不登校の子どもたちが通っていたので、一緒に遊んだり、勉強したりといった生活を送っていました。
 その頃から行きたい高校があったので、なんとか学校に行かなくちゃと思って、中3からは登校するようになりました。そのときのクラスはとてもいい雰囲気で、友だちにも恵まれ、中3の一年間は楽しく通うことができました。

海野  高校には入学できたんですよね?
A子  私が行きたかった高校には受験で落ちてしまい、別の私立高校に通いはじめましたが、頑張っている自分がバカみたいに思えるような学校で、だんだん自分に合わないなと思いはじめ、高1の冬頃からまた休みがちになり、高2でまったく行けなくなりました。その後、サポート校に転入し、そこでは自分の時間がもてて楽しく過ごすことができ、おかげで大学にも進学できて、現在は大学生活を満喫しています。
 不登校になった頃の親の対応は、父は「学校に行きたくないなら行かなくてもいいんじゃないか」という考え方をする人でしたが、母は無理やりひっぱってでも行かせようとしました。まだ小さかったので、なんの抵抗もできず、何度も力ずくで学校に連れて行かれたりして、すごくつらかったです。
海野  お母さん、その頃のお気持ちを聞かせてください。
A母  はじめまして、A子の母です。A子には、2歳上の姉がおり、私はフルタイムで働いていたので、2人とも保育園に通わせていました。実際、2人の娘は祖父母に育ててもらったようなものです。2人とも保育園のときから行きしぶりがあり、朝、私が保育園に連れて行くと、泣いて、しがみついて離れない日が多かったです。子どもとふれあう時間も少なく、私自身、子育てに自信がありませんでした。
 小学校に入学してからも、姉のほうについては「いつ不登校になるんだろう」という不安をずっと抱えていました。結局、姉は小4のときに不登校になってしまいました。
 ただ、私としては、不登校になってからよりも、行かなくなる前の状況が本当につらくて、毎朝、今日は起きるだろうか、行くだろうかという不安を抱えていました。なんとか起きて支度をさせても、トイレに入ると出てこない。娘が朝トイレに入ると言うと、こちらは緊張状態になるという状況でした。そんなわけで、親としては行かなくなったあとのほうが腹がすわったというか、気持ちは楽になったかなと思います。
海野  A子さんのときは、どんな感じでしたか?
A母

 A子は、友だちと遊んだりするのが好きで元気に見えたので、不登校になった小2の時点では、無理やりでも登校を促せば行くんじゃないかという思いがあり、午前中は会社を休んで、A子の手をひっぱって学校に行くことがありました。

 いまでも印象に残っているのは、学校に連れて行く途中でA子が電柱にしがみついたときのことです。電柱から手を離そうとしないので、私が足をひっぱったら“鯉のぼり”みたいになってしまって(笑)。A子が転校したあとは、私はもう会社を辞めていたので、毎日、2人の娘をひっぱって登校させる日々が続きました。

◆「自分はダメな人間なの?」という不安

 

海野

 不登校中、B男くんはどんなことが不安でしたか?

B男
 性格的に先のことまで考えてしまうタイプなので、中学の頃にはもう大学のことを考えていました。高校に入って、大学に入って、会社に就職するという将来イメージを描いていたので、不登校になってまず考えたのは、高校に行けない→大学に行けない→満足できる仕事に就けないということでした。となると、自分がいままで思い描いていた人生はどうなっちゃうのかなと不安でたまりませんでした。
海野
 そんなB男くんを見ていて、お母さんはどう感じていましたか?
B母
 落ち込んでいるのを見るのはつらかったですが、それ以上に、義母や主人が「どうして行けないのか?」「理由は聞いたのか?」とか、しょっちゅう私を介して息子の気持ちを聞き出そうとするのがつらかった。主人は言い方がキツいので、主人が息子に対して言った言葉を、私が通訳のように柔らかくかみくだいて息子に伝えたりもしました。義母は、世間体を気にするタイプで、息子たちの不登校についてよく悪態をついていました。
子どものことよりも、家庭内の大人に対する気のつかい方が大変で、主人や義母から息子たちを守る役割をしなければいけなかったこともつらかったです。
海野
 学校との関係はどうでしたか?
B母
 小学校では、不登校について一切理解してくれませんでした。とにかく親の責任という考え方で、「お母さん、いったい何を考えているんですか!?」と詰問されたこともあります。自分は親として間違ったことはしてないと思っていましたが、「やはり親としてダメなのかな」と自分を否定するようになってしまいました。
中学校ではある程度理解してくれて、相談にのってくれる養護の先生もいたので、その先生から担任の先生にアドバイスをしてもらったりして助かりました。
私は、大学を出て、いい会社に就職することが幸せといった価値観がなく、自分の決めたことなら、どんなことをやってもかまわないという考え方だったので、2人が不登校になっても将来的になんとかなるだろうという思いがありました。
ところが主人と義母は、いい学校に入れて、いい会社に就職させたいという考えが強いので、それが2人に大きな影響を及ぼしていたのだと思います。B男の場合は、そうした流れのなかで、いい大学に入って、いい会社に入って…というプランをもっていたのに、中学で不登校になったことによってスタート時点で足下をすくわれたかたちになったわけで、そこが本人としては苦しいし、つらかったのだろうと思います。
海野
 A子さんは、どんなことが不安でしたか?
A子
 まわりの人たちが普通に学校に行っていて、当たり前のように生活を送っているなかで、私だけどうして学校に行けないのかなと、そのことだけを考えていました。「自分はダメな人間なんじゃないか」とすごく不安でどうしようもなく、自己嫌悪におちいったり、自信をなくしていました。
海野
 お母さんは、どんなことが心配でしたか?
A母

 当時の私は家よりも会社にいる時間が長く、地域の方々とのかかわりもあまりありませんでした。だから、子どもが不登校になったときも自分の子育てに自信がもてなかったし、自分自身にもずっと自信がもてず、人に対して緊張感をもって接していたような気がします。
そうした狭い価値観でしか物事を見ることができず、不登校に対しても、子どもがまだ小学生の頃は「学校にはどうしても行ってほしい」「そのためにはなんでもしよう」という考え方でした。じゃあ、「自分はどうしたらいいんだろう」と考えるなかで、しだいに、子どもに学校に行ってもらうためには、親としての自分も変わらなければいけないんだろうなあと思いはじめ、「自分をどう変えようか」という問題意識が強くあったように思います。

海野  A子さんのときは、どんな感じでしたか?
A母

 A子は、友だちと遊んだりするのが好きで元気に見えたので、不登校になった小2の時点では、無理やりでも登校を促せば行くんじゃないかという思いがあり、午前中は会社を休んで、A子の手をひっぱって学校に行くことがありました。

 いまでも印象に残っているのは、学校に連れて行く途中でA子が電柱にしがみついたときのことです。電柱から手を離そうとしないので、私が足をひっぱったら“鯉のぼり”みたいになってしまって(笑)。A子が転校したあとは、私はもう会社を辞めていたので、毎日、2人の娘をひっぱって登校させる日々が続きました。

 


◆娘を引きずって教室に連れて行ったことも

 

海野

 先ほどA子さんを学校に無理やり引きずって行ったという話がありましたが、お母さんとしては、とにかく登校させなければならないという思いだったんでしょうね。

A母 

 A子に対しては無理やり行かせようという対応が多かったですが、A子が不登校になってから、姉のほうが小4の頃に“赤ちゃん返り”をして、お風呂で髪を洗うにもだっこしてやるような感じになりました。行きしぶる2人を学校に連れて行くときも、小4の姉をおんぶし、A子の手を引いて…というような日々が続きました。
 最初は2人とも教室に入れなかったので、一緒にプレイルームにいて時間をつぶす感じでした。やがて姉のほうが教室に入れるようになり、A子だけ入れない状態が続いたので、私もあるときキレてしまって、嫌がる娘の足をひっぱって教室まで連れて行ったことがあります。

海野
 A子さんは、そのときのお母さんの対応をどう感じましたか?
A子

 その頃は私も母に抵抗して、なんとしても学校に行きたくないと思っていたので、トイレに閉じこもったり、家のどこかに隠れたり、プチ家出をしたりしました。
足をひっぱられたことはいまでも覚えていますが、それまでけっこう頼りにして甘えていた母に、そんなことをされてかなりショックでした。あお向けの状態でズルズルと足をひっぱられて、どうしても入りたくない教室に引きずり込まれたのですが、クラスメートの目も恥ずかしかったし、そんな状態になっている自分も情けなくて、母はどうしてこんなことをするんだろうと思ったのを覚えています。

海野
 A子さんもお母さんもつらかったろうなと思います。
 B男くんのお母さんはどうでしたか? B男くんのときは無理やり学校に連れて行くようなことはなかったみたいですが、弟さんのときは?
B母 

 弟のほうは、最初の頃、どうしても足が動かないと言っていましたが、「とにかく校門まで行ってみよう」と言って無理に引きずって連れて行ったこともあります。途中でどうしようもなくなって連れて帰ってきたこともありますが、弟のときは、小学校側から「1日1時間でもいいから、好きな授業だけでも出席すると学校とつながることができるから」と言われていたので、毎晩、息子に「明日どの授業なら行けそう?」と聞いて、選ばせていました。翌朝になるとふさぎ込んでいるのですが、それをなだめすかして、なんとか支度をさせて、1時間だけ一緒に学校に行くということをしばらく続けていました。

  

◆「物は簡単に捨てられるけど、子どもは捨てられない」そう思ったら腹がすわった

 

海野 

 親としてお子さんへの接し方が変わったり、かかわりの転機になったことは?

A母
 2人の娘が交互に不登校をくり返し、行けるようになったかと思うと、また行けなくなったりという状態が何度かありました。そのなかで、「行かせようとしてもダメなんだ」とわかったときに、親としての自分の力の限界を感じましたね。それで、「ダメなんだ」というところからスタートして、「じゃあ、どうしようかな」と考えるようになり、自分はそれまで地域とのかかわりもなかったし、不登校の本を読むより何より、まわりの人や地域の方々からいろんなことを教えてほしいし、自分もいろんな人と知り合いになりたいと思いました。
 子どもの不登校を隠して自分がつらい思いをするのが嫌だったので、オープンにしようと思って、子ども会やPTAの役員を積極的に引き受け、先生ともなるべくいい関係を保とうと学校にも頻繁に出入りするようになりました。おかげで、いままでにない世界が広がり、気分転換にもなり、子どもが中学生になったときには「無理に行かなくてもいいよ」と言えるようになっていました。子どもが学校に行っていないことを隠さず話すようになったと同時に、学校に行かなくてもいいと認められるようになった気がします。
 A子が適応指導教室に通うに際して、親の面談があったのですが、そのとき私は「娘を学校に戻すことは考えていません」と申し上げました。そこまで自分が変われたことに、自分でも驚いています。
海野
 B男くんのお母さんは、どうでしたか?
B母
 カウンセラーの先生に、主人や義母への対応や逃げ方を教わってから考え方が変わりました。主人も義母も大人なんだから、「自分のことは自分でやってください。私は母親として不登校の2人の息子とのかかわりに時間をかける」と言えるようになりました。それが、息子に対する母親としての立場の変わり目だったと思います。
海野 
 A子さんのお母さんは、途中で仕事を辞めたんですよね?
A母
 自分がいくら頑張って学校に行かせようと思っても、子どもは思いどおりにならないし、勤務時間中にお母さんに会いたいと娘たちが会社の近くまでやってきたりするし、残業続きでタクシーを飛ばして急いで帰宅したり…とヘトヘト状態で、これ以上、会社勤めは無理と思って会社を辞めました。
 そのあたりから自分の価値観が変わってきたように思います。これまで社会から外れてはいけないと思って生きてきたけれど、子どもの不登校という状態はどうしようもないし、物は簡単に捨てられるけど、子どもは捨てられない。もう不登校の状態を受け入れるしかないと腹をくくりました。それからは、子どもの不登校自体は不幸じゃないんだ。そのことによって家庭のなかが暗くなったり、子どもがつらい思いをしながら生活することのほうが不幸なんだから、楽しくやっていくしかない。会社を辞めたときも、会社に勤めていたらできないことがたくさんあるから楽しいと考えるようにしました。
 子どもの不登校に教えられて、自分の価値感を軌道修正してきたように思うし、いまもそれは続いています。
海野
 B男くんやA子さんは、そうしたお母さんの変化に気づきましたか?
B男
 いじめられていた小学校の頃と、不登校になった中学校の頃は、母の目が吊り上がって鬼のような形相で、子ども心に、これは無邪気に甘えたりできないなという感じでした。その後、母がカウンセリングに通うようになってから、表情や目つき、しぐさなどが和らいだというか、何か包み込まれる感じがあって、ああ変わったなあと思いました。
A子
 不登校になった当初、母はピリピリしていて近づきがたい感じでした。その後、私のありのままを受け入れてくれるようになってからは、無理やり学校に連れて行かれることもなく、自分でも「学校に行かないことは別に悪いことではない」と思えるようになりました。会社を辞めて私のそばにいてくれるようになったときは、母の存在によって安心できるようになり、すごくうれしかった。


 

◆親の対応、こんなことが嫌、こんなことがうれしい

 

海野
 親の対応で、何がうれしかったか、何が嫌だったかを教えてください。
B男
 うれしかったのは、不登校になったとき「休んでもいいよ」と言ってくれて、無理やり行かせようとしなかったことです。弟のときは無理に行かせようとして、「行きたくない!」と泣きわめく弟の姿を見ていましたから。そのときの状況は、いま思い出しても嫌ですね。
A子
 母に無理やり学校に行かされたのは、すごく嫌でした。うれしかったのは、中学生になってから、母が「もう無理しなくていいよ」という感じで接してくれて、ありのままを受け入れてくれたことです。私の話をよく聞いてアドバイスしてくれたり、そばにいてくれたことがうれしかったです。
海野 
 親として、お子さんの様子を見ていて、「なぜ、こうなっちゃうの?」と不可解に思うこともあるかと思いますが…。
B母
 本人も話していましたが、先々のことを考えるタイプで、そこから逆算して、いま何をすればいいかを判断する子なんです。それで、「もう大学に行けない」とか「いい会社に就職できない」とか、遠い将来のことを考えて不安がっていました。でも、私としては、子どもが不登校になってしまって、数日先のことさえわからない不安な状況だったので、それに対してなんとも答えようがないというか…。
A母 
 不可解ということでいえば、まず、学校に行けない理由がわからないわけですが、それについては、問いただそうという気持ちはありませんでした。
ただ、2人の娘に共通しているのは自信のなさです。いつも「私ってダメな子なの?」「みんなと同じことができないからダメなの?」と聞かれていました。だから、なぜこんなに自信のない子になってしまったんだろう。どうしたら自信をもたせてあげられるんだろうと、そのことばかり考えていました。
海野 
 A子さん、その点について、いま考えるとどうですか?
A子 
 自分とまわりの人とを比較したり、まわりが自分のことをどう思っているかがすごく気になりました。どう見てもまわりの人とは違う生活を送っているわけで、みんなと同じようにできないことがダメなんじゃないかと思ってしまうんです。
いまは、それぞれが自分の信じた道を行けばいいし、「これが普通」という基準はないこともわかってきたので、あの頃、もっと自分を信じて、もっと気軽に考えればよかったなあと思います。
海野
 A子さんは、お父さんと交換日記をしていたんですよね?
A母
 中学1年の頃、A子は、日頃の悩みや不安などを人にうまく話せないこともあって日記をつけていたんです。その延長で、私が「お父さんあてに、あなたが考えていることや悩んでいることを書いて、聞いてみたら?」とすすめて交換日記が始まりました。その頃、主人は単身赴任中で土日しか家に帰れず、娘と話す機会も少なかったので、その意味でもよかったと思います。それを中学の担任の先生に話したら、「私にも日記を書いてくれないかな」と言ってくれて、短期間でしたが、担任の先生とも交換日記をしていたことがあります。
海野 
 家族以外で、お子さんの不登校について悩みを相談できる方はいましたか?
B母 
 中学校の養護の先生が市の教育相談室のカウンセラーを紹介してくれて、そのカウンセラーの先生とすごくウマが合って、いろいろ話をしているうちに気持ちが楽になってきました。私の気持ちがリラックスすると、息子たちもリラックスするということも学びました。
家族についても客観的に理解できるようになりました。わが家では、義母と主人が手間のかかる子どもみたいで、義母が長女、夫が長男、その下に2人の息子と、子どもが4人いるような感じでした。長女と長男の面倒をみるのが大変で、次男と三男の母親としての役割をうまく果たせなかったということにも気づきました。
そのカウンセラーの先生には、主人と義母への接し方、いい意味での逃げ方などを教えてもらいました。息子たちについては、とくに「こうしなさい」と言われた記憶はなくて、家庭内のストレスや家族関係を改善すれば、子どもの不登校もだんだんいい方向に行くよという励ましをもらったように思います。
海野
 B男くんには、誰か相談する人はいましたか?
B男
  信じられるのは親だけで、外部の人間は絶対に信用できない、理解してもらえないと思っていたので、カウンセラーに相談しようという気持ちにはまったくなりませんでした。当時は、スクールカウンセラーもいない時代でしたが、もし現在のように学校にスクールカウンセラーがいても相談しなかったと思います。
A母 
 カウンセリングを受けたことはないんですが、担任の先生、PTA活動で知り合った友だちやまわりの方々が娘の不登校を理解してくれたことと、多くの方とかかわるなかで自分自身が変わっていくきっかけを学んだことが大きかったと思います。
A子
  私もカウンセラーに相談したことはありませんが、小中高を通して担任の先生に恵まれ、どの先生も私のことを気にかけてくれました。特別たくさん話し合ったわけではありませんが、どこかで心の支えになってくれていたような気がします。
海野 
 不登校状態が長引くと、親も子も気分転換や不満・不安のはけ口が必要になってきます。A子さんやB男くんは、どんなことでストレス解消をしていましたか?
A子 
 小学校の頃は、日曜日になると父と一緒に出かけることが多かったです。公園に行ったり、ちょっと遠出をして海にも連れて行ってくれました。それが気分転換になると同時に、父との交流のなかで安心できる時間になったと思います。
中学を卒業してからクラシックバレエを始めましたが、踊っている間は何も考えずに済んだし、心身ともに解放できる時間だったかなと思います。
B男
 私の場合は、ありきたりですがゲームですね。不登校中は、とにかく時間だけはたっぷりあってヒマなので、ゲームをやるしかない。ゲームをやっていると、その時間だけは、自分が不登校であることを忘れられる。つまり、つらい現実から逃避できるわけで、絶好の気分転換になりました。その頃よくやっていたゲームは「信長の野望」などの歴史もの。小学校の頃から日本史が好きで、不登校中は歴史もののゲームに没頭し、そして、いまは大学で日本史を勉強しているわけで、自分でも不思議な感じがします。

 

◆学習の遅れは取り戻せるから大丈夫

 

海野
 勉強のほうはどうしていたの?
B男
 はっきり言って、勉強はほとんどしていません(笑)。
A子
 私も同じで、家にいるときはほとんど勉強はしませんでした。学校に行っているときは、とりあえず試験はいい点数を取ろうと思って頑張りましたが、もともとあまり勉強が好きなほうではなかったので…。
海野
 親として学習の遅れは気になるところですが、何か対策を考えたりしましたか?
B母
 B男の場合は中2の1月まで学校に行っていたので、ある程度学力の基礎はできていたのかなと思います。次男のほうは小4から不登校ですから、担任の先生に「基礎が抜け落ちていると、中学に行ってから授業についていけませんよ」と言われたことがあります。
それですごく不安になり、教材を買ってきてやらせたほうがいいのかなと悩みました。カウンセラーの先生に相談すると、「学校が嫌で不登校になっている子どもにとって、勉強はいちばん学校とイメージが重なるものだからやりたいはずがない。その気持ちに追い打ちをかけるように、勉強をしなさいとは言わないでください」とアドバイスされました。そして、「不登校の子どもがいざ勉強に打ち込むぞとなったときのエネルギーは半端なものではないし、あとから取り戻そうと思ったらいくらでもできるから大丈夫」とも言われました。
そう言われてもやはり不安でしたが、「勉強しなさい」と言いたい気持をじっと我慢しました。その後、次男は中1で塾に通いはじめて、小学校で抜け落ちた部分を1年かけて復習し、どうにか理解できるようになりました。そのとき、子どもがやる気を出したときのエネルギーはすごいなと実感したので、それまで待ってあげれば大丈夫じゃないでしょうか。
A母
 不登校中に子どもに勉強しろというのは本当に無理だと思います。子どもは学校のことを思い出したくないわけですから、教科書を開くなんてとてもできない。だから、勉強のことは一切口にしませんでした。
とはいえ、小学校の低学年から学校に行けず、塾にも行かなかったので、分数などもまったくわかりません。ただ、分数のようにどこがわからないかはっきりしていることについては、私が手助けをして勉強したりしていました。
海野
 話の途中ですが、今日、A子さんはどうしても抜けられないアルバイトが入っていて、ここで退席します。最後にA子さんから、ひと言メッセージがあるそうです。
A子
 みなさんから見ると、私は回り道をしてきたように思えるかもしれません。でも、私にとって不登校は必要な経験だったし、不登校があったからこそ、いまの私がいると思います。不登校中は自分を見つめる時間がたくさんあって、いろいろ考えることで成長できたと思っています。今日はこのような場を与えていただき、ありがとうございました(拍手)。
海野

 A子さん、ありがとうございました。


 

◆高校選びの決め手になったこと

 

海野

 中学卒業という節目を迎えたとき、どんな気持ちになりましたか?

B男
 中3の夏頃は、家にいても同級生が進路のことや高校のことでザワザワしている雰囲気が伝わってきて、私自身もかなり焦っていました。ところが、担任の先生が家庭訪問に来てくれたとき、「出席日数が足りないから普通高校への進学は無理なので、定時制高校か通信制高校にしか行けないよ」と宣告されてしまいました。
実は、不登校中に「沈黙の艦隊」というマンガを読んで、潜水艦に乗りたいと思い、そのためには海上自衛官の幹部にならないといけないから、防衛大学校に入らなければならないと思っていました。ところが、防衛大学校は21歳以上の人は受験できなくて、定時制高校は卒業まで4年かかるので、受験のチャンスは1回しかない。一発でレベルの高い大学に合格できるのかと考えて、じゃあ高校は3年間で卒業できる学校を選択しようと考えました。
ちょうどタイミングよく、母が不登校の子が通いやすいサポート校という学校があることを教えてくれたので、2日間ほどサポート校のしくみを調べたりして、検討してみようかなと思いはじめました。その後、母が候補としてすすめてくれた3校の学校見学をして雰囲気を確認したあとで、入学するサポート校を決めました。
海野
 お母さんが進路情報を提供してくれたのは、いいタイミングだった?
B男
 高校はどうしようかなと焦りはじめた頃で、絶妙なタイミングでした。
B母 
 私としてはタイミングを意識したわけではなく、養護の先生が息子の性格をよくわかっていて、息子に合いそうな学校の情報を集めてくれたので一応それを見せたわけですが、最終的に進路先を決めるのは本人だから、という気持ちでした。
海野 
 A子さんやお姉さんの場合はどうでしたか?
A母 
 長女は、中2の頃からまた学校に行けなくなったのですが、私は中3になっても行かなくていいと思っていました。
ちょうどその頃、北海道に不登校や高校中退者を受け入れている私立高校があることを知りました。長女は、地元の高校に電車通学することはできないと思っていたので、どうせなら遠くに行くのもいいかな、北海道の広い大地とゆったりした雰囲気もいいかもしれないと思っていました。そこで中2の秋、長女に「こういう学校があるけど行く?」と聞いたら、「行く」と即答したので、その私立高校に入学し、無事卒業することができました。
次女はミュージカルや演劇が好きだったので、演劇科のある高校に行こうと頑張っていましたが、倍率が高く、勉強が追いついていないこともあって受験に失敗し、別の高校に入学しました。そこでまた不登校になったとき、先の北海道にある私立高校に入学したものの不登校で行けなくなった女の子が、あるサポート校に通っているという情報を教えてもらいました。そのことを次女に伝えると、「私もサポート校に行きたい」と言うので、さっそく学校見学に行き、面談で校長先生といろいろお話しした結果、転入を決めました。
海野 
 お姉さんは自宅から遠く離れた高校で下宿生活をされたわけですが、入学するに際して、ためらいや不安はありませんでしたか?
A母
 不思議なことに迷いはありませんでした。家にいるときは私を追いかけ回したり、感情をぶつけてきたりするんですが、私としては、だからこそ離れたほうがいいのかなという思いがありました。
最初は私ひとりで下見に行き、不登校や高校中退者の受け入れには実績があるので、それなりのサポートが期待できることと、民間の下宿で生活するわけですが、管理人さんのサポートもあり、親以外に娘のことを親身に支えてくれる人々がいることもわかりました。それらが高校を卒業できたことにつながったと思います。
海野
 娘さんも、その高校に行こうという心の準備ができていたのでしょうか?
A母 
 すごく不安だったと思いますが、私がこういう高校があるよと情報を提供したことがひとつの安心感につながったように思います。娘と同じ不登校の子どもたちが通い、しかもうまく高校生活を送っているということで、じゃあ自分にもできるかなと思ったのでしょう。
長女としても、なんとか高校を卒業したいという思いがあり、だからといって地元の高校に入れば、友だちと顔を合わせる可能性もあるので絶対に通えなかったでしょうし、逃げるわけではありませんが、遠方の高校に入学することに希望を見つけたのだと思います。
海野
 B男くんが見学した3校のサポート校のうち、ここに決めたと思った理由は?
B男
 そのサポート校は「ラオスに学校をつくろう」というボランティア活動を積極的に行っていました。それまでボランティア活動を経験したことがないので興味がわいたのと、東南アジアの発展途上国に学校を建てるというスケールの大きいプロジェクトに自分も参加してみたいと思ったのが決め手になりました。
海野 
 サポート校に入学してからは、どんな生活でしたか?
B男 
 入学して間もない5〜6月頃もそうでしたが、1年のうち1カ月くらい続けて休んだことが2〜3回ありました。2年生になると教室に入れなくなりましたが、会議室のような部屋で勉強させてもらって、教室には入れないけど登校はできる環境をつくってもらいました。

 3年になると大学受験が迫ってきたので頑張って通いましたが、好きな日本史の授業がある日は朝から行き、1時限目が苦手な数学のときは2時限目から行くとか(笑)、意識的に遅刻や早退をしながら、なんとか登校していました。それでも学校をやめようとは思いませんでした。どこかで自分の気持ちとサポート校はつながっている、自分のやろうとしていることとサポート校がつながっている感じがしていたので、卒業まで続いたのかもしれません。

 

 

◆不登校中の自分を支えてくれたもの

 

海野 
 これまでの長い不登校期間、心の支えになっていたものはなんですか?
B母
 直接的には、市の教育センターのカウンセラーや養護の先生が支えになってくれました。あとは、好きな料理を作ってあげたときの息子の笑顔を見るのが救いでした。そういう笑顔の状態を長く続けたくて、頑張ってきたような気がします。
B男 
 いまの話を聞いて、ちょっと泣きそうになっちゃいました。私の心の支えは、シンガーソングライターの小松未歩さんの歌でした。ポジティブで明るい曲が多くて、詞にもメッセージ性があり、中学校のときからずっと聴いていて、その瞬間だけは気持ちが明るくなりました。でも、やっぱり本当の心の支えになっていたのは母親かなと思います。
A母 
 娘が不登校になってからおつきあいさせていただいた地域の方々に、娘のことを隠さず本音で話し合うことによって支えていただいたと思っています。
海野
 不登校を経験して、親子関係にどんな変化がありましたか?
B男 
 不登校を通して、母との関係が単なる親子関係ではなく、なんでも話せる友人のような関係になった気がします。父は昔ながらの価値観をもっていて、男の子が母親になんでも話すのはおかしいと思っているようなんですが、大学の話題やバイトのことまで、私はなんでも母に話します。それが自然に思える関係ができあがったように思います。
B母 
 2人の息子が不登校になる前の親子関係のままだったら、こんなに精神的に楽な状態にはなっていないと思います。B男は私にとって、ちょっと年の離れたなんでも話せるいい友人でもあり、最近は身体的にきつくてできない家事なども代わりにやってもらったりして、私のほうが甘えさせてもらっています。
A母 
娘が小学校低学年の頃、忘れられない出来事がありました。学校に行く行かないですったもんだしたあげく、ようやく学校に行ったと思ったら、途中から引き返してきたんです。私はパニック状態になり、台所にあった包丁を持って「一緒に死んで!」と迫りました。でも、そういうのってあんまり効き目ないんですよね(笑)。というか逆効果。娘は泣きじゃくっていましたが、あとで、「自分が甘えている人に全否定されたような気がして、ただただショックだった」と言っていました。
そんな時期を経て、娘をありのまま受け入れられるようになる過程で、私自身の価値観が180度変わり、少しは視野が広くなったかなと思います。不登校になった2人の娘に対して、親としてすべてをぶつけ合うことによって、親と子の関係を越えて、ひとりの人間として娘たちと話し合える関係をつくることができたことがうれしいです。
海野
 B男くんが不登校になってから、お母さんは外に働きに出るようになって、そのことで救われたそうですね?
B母
 はい。フルタイムではなく、近くのコンビニでパートとして働いていただけなんですが、カウンセラーに「しんどいことがあったときに避難できる逃げ道をつくっておいたほうがいい」とアドバイスされたのがきっかけです。子どもとずっと顔を突き合わせていると、互いに息が詰まって、つまらないことで衝突してしまうこともあるので、それが解消されるかなと思って働きはじめました。パート先の奥さんも理解のある方で、精神的に支えてくれましたし、働くことは気分転換というか、いい意味での逃げ道になっていたと思います。
海野
 最後にB男くんから、いまの気持ちと将来の夢について、ひと言お願いします。
B男 
 いまふり返ってみて、不登校をしてよかったなと思います。不登校をしないまま、ズルズルと学校に行って、いまの年齢になっていたら、おそらく変にプライドが高く、鼻もちならない上から目線の嫌な人間になっていたような気がします。そういう意味で、不登校をして現在の自分があることに感謝しています。
もし、タイムマシンがあったら、中学時代の自分に会って、「大丈夫だよ。そのまま安心して休んでいいよ」と言ってあげたいです。
現在、私は大学で教職課程を取り、教員を目指して頑張っています。そのなかで前例がないことなのですが、私が卒業したサポート校で教育実習ができることになり、母校の先生方にとても感謝しています。
海野
 では、2人のお母さんから、会場のみなさまへメッセージをお願いします。
B母 
 本人も不登校という時間があってよかったと言っていましたが、子どもにとって、本当に無駄な時間はないと思います。不登校だった頃の全部がプラスになっているような気がしますし、それを親として受け入れてよかったと思っています。
不登校といっても状況は一人ひとり違うと思いますが、どうかお子さんの生きていこうとする力を信じてあげてください。そして、親御さんご自身のことも信じて、「いまのままで大丈夫」と言い聞かせて、肩の力を抜いて生きてください。
A母 
 2人の娘は不登校を克服したのではなく、自分に合った学校を見つけ、そこで生き生きと生活することができて、卒業することができたということかなと思います。
先ほど、「なぜ娘たちは自信がもてないんだろう?」というお話をしましたが、いま、ふと思ったのは、私自身が娘たちの自信を摘み取っていたのかもしれないということです。たとえば、娘が絵を描いたとき、それをそのまま受けとめるのではなく、私は「ここはこうすればいいんじゃない?」という対応をしてきたような気がします。その結果、子どもが自信を失ってしまったのかなあと。
ですから、どうかお子さんのいいところを見つけて、ほめて、ほめて、ほめてあげてください。そうして自信をもたせてあげることが、将来、困難にぶつかったときに乗り越える力につながっていくような気がします。
最後に、お子さんのことだけを考えていたら自分の身がもちませんし、自分の時間をもつことができなくなってしまいます。なんでもいいので自分の楽しみ、気分転換できるものをお子さんと離れたところで見つけてください。そうすることが、逆に子どもの気持ちを楽にすることにつながるような気がします。
海野 
 長時間にわたり貴重な体験をお話しいただき、ありがとうございました。


 

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