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不登校はなぜ“治る”のか Part2


2014年12月7日に開催された登進研バックアップセミナー91の第1部の内容をまとめました。

講師:斎藤 環(筑波大学教授)


自発的な再登校につなげる配慮

 原因の解明も含めて不登校の解決に向けて、先生方は話し合いや家庭訪問をするわけですが、これは子どもとかかわるためです。不登校のお子さんにかかわることは、親御さんも先生にも必須事項ですから、ちゃんと上手にかかわっていただきたいと思います。
 つまり、かかわらないという選択肢はなく、放置や放任はあり得ないということです。放置や放任は間違った対応で、過干渉と同じくらい罪深いもので、マイナスの影響を残すことになります。
 思春期・青年期の子どもたちにとって、いちばん恐ろしい事態は親から見捨てられることです。かかわり方の問題として濃厚すぎてもいけないし、薄すぎてもいけない。どのくらいが適正かについては実際にかかわりながら考えてください。

 家庭訪問についても同じです。登校刺激を目的とした家庭訪問は論外ですが、家庭訪問がなぜ大事かというと、「学校があなたのことを忘れていない」ということをアピールするためであり、子どもたちにとって、忘れられてないことは大事です。そうすることで、子どもたちは希望をつなぐことができるわけです。たとえ5分でも家庭訪問があれば支えになることがあるということです。

 なかには会ってくれない子どももいます。でも、家庭訪問には行っていただきたいのです。よく聞く話ですが、まったく会ってくれなかった子が、先生があきらめて家庭訪問を止めたら、「今日は先生、どうしたの?」と聞いてきたというのです。先生には会わないけど、実は訪問を期待していた。逆に言えば期待しているけど会えない葛藤があるわけです。

 確信的に不登校になるお子さんは、まずいないと思ってください。同時に確信的に大人を拒否できるお子さんもいないと思ってください。そこには必ず迷いがあります。その迷いのポジティブな方向に働きかけるのが大人の役割です。この場合は、子どもが学校との関係を切りたくないと思っているに違いないということを前提として、働きかけるのが先生や親御さんの役割ですが、その場合、思春期の子どもの気持ちは繊細で揺れ動きやすいわけですから、やってほしいことを正面から伝えたら、それは反発しか買いません。たとえ、結論は再登校しかないとわかっていても、それは敢えて言わないでおく配慮が治療的な対応というものです。 

 そうすることによって、子どもが自分で思いついたかのようにふるまうことが大事です。子ども自身が考えた結果として、「自分は再登校したほうがいいかもしれない」と思いついて行動すれば、それは定着します。逆に周囲のお仕着せによる嫌々ながらの再登校は、続いても一週間程度です。自発的かどうかというのは、大きな分かれ目です。子どもの人権を尊重するという姿勢が治療的に生かされると言ってもいいかもしれません。

 どうしても学校がいじめなどの原因を解決する姿勢がない、ハラスメントに関して謝罪するつもりがない、いじめ加害者にペナルティを与えるつもりがないなど、誠意のない場合は、そこに戻ることができないこともあり得ますが、その場合は適応指導教室やフリースクールなどのオルタナティブな選択肢があるわけです。現在、高校卒業資格を取得するコースは8通りあるそうですから、そのなかから自由に選んでかまわないわけで、それは親子で相談して決めればいいわけです。

不登校は「理由あるメッセージ」として対応

 図2「基本的対応――登校刺激の是非をめぐって」には、これまで申し上げたことが書いてありますが、「再登校」を目標としないで、「どうすればこの子が元気になるか」を目標にするということです。この元気というのは、自分の部屋から出てこないということではなく、まずは家の中で活発に家族との会話が成り立つ状況をめざしていただきたいということです。その前段階として、十分な休養期間を保証する必要があります。不登校でもひきこもりでも、かなりギリギリまで頑張ってエネルギー切れ状態になったお子さんが多いですから、休養なしで追い立てるように再登校させることは禁物です。


図2
図2


 さまざまな症状があらわれている場合でも、いきなり病気と決めつけず、何らかのメッセージであろうと解釈してみることが大切です。先ほど申し上げた「正常化バイアス」を実践するということです。理由あるメッセージを発しているのだろうということで対応すると症状が消えることがあります。そういう意味で、不登校のようなボーダー上の問題に関しては、何でも病気という見方は慎んでいただきたいと思います。

 医者なので敢えて言いますが、不登校のような問題は、病気という先入観をもたずに向き合ったほうが早く解決することが多いという経験則がありますので、不登校やひきこもりに関しては、正常化バイアスのもとで初期対応を進めていただければと思います。不登校への対応の基本姿勢として大切なのは、常に本人の「拒否権」を尊重し、子ども自身が進むべき方向を選択できるまで、干渉を控えて見守ることです。このスタンスからあまり外れないようにしていただければいいかと思います。

まずは家の中で元気になることを目標に

 では、どうすれば不登校の子どもが元気になるかですが、「再登校が目的ではなく、まずは家の中で元気になることが目標です」と申し上げると、半数ぐらいの親御さんは「じゃあ、放っておきます」と答えます。くり返しますが、放っておいてはダメです。むしろ、かまってあげてください。ただし、適切に上手にかまってあげてください。その上手にかまってあげるかかわり方を、お子さんと一緒に学んでいただきたいと思います。

 お子さんが元気になるのは、親子の会話が成り立っている場合です。つまり、コミュニケーションがある場合に限定されます。コミュニケーションがまったくない環境のなかで異常に元気というのはあり得ません。やはり、会話のなかに活力や元気、意欲があらわれてきます。子どもが親と口をきかなくなる理由のひとつは、不信感です。それはほとんどの場合、親御さんの初期対応などで再登校の促しや叱咤激励があったりするので、それから身を守るためにコミュニケーションをシャットアウトしてしまうわけです。もうひとつの理由は、親御さんに対して申し訳ないからです。自己評価が下がり、「こんな自分ですみません」といった気持ちが強いため、萎縮してしまっているということがあります。

 お子さんを元気にするためには、こうした気持ちでいることを理解したうえで、粘り強く働きかけを続けていただきたいと思います。まずは、「学校を休んでゆっくりしようよ」とくり返し言ってあげて、休養を保証してあげることが第一点です。

 次にお子さんと一緒に遊ぶ機会を増やしていただきたいと思います。学校にも行けないのに遊んでいいのかという価値観がまだ蔓延していますが、それは間違いです。最高度の元気が再登校と仮定すれば、それより少し低いのが遊べる元気、さらに下って一緒に食事をしたり、ぐっすり眠ったりする元気があります。

 段階的に見れば、遊べる元気は、そんなに低くいわけではありません。まずは家の中で遊びを楽しめるレベルになることを目標にしていただければと思います。その際にお子さんと一緒に遊びに行ったり、ゲームをやったりする関係をつくっていただきたいのです。

 不登校のお子さんは、例外なく不安にかられています。「うちの子は不安そうに見えない」と言う親御さんがいますが、それは不安がないように装っているだけの話です。思春期になれば親御さんの前で演技をするなんてことは、お茶の子さいさいです。信頼関係ができ上がって、じっくり話を聴いてみると、実は不安だということがわかってくると思います。逆にお子さんが不安な顔を見せないうちは、信頼されていないと思ったほうがいいかもしれません。弱音を吐ける、冗談を言い合える関係になって初めて信頼関係が成り立っていると考えるのがひとつの目安になります。

 ただ、重要な再登校や進路などの話題については、到底まだ無理がありますので、そうした話題は振らないであげるのも大切な思いやりです。特に本人が恥と感じているような話題は禁句と考えてください。日本では家庭こそが、もっとも子どもが恥をかかせられる場であることが多いと指摘した専門家がいましたが、その点については配慮が必要です。それは思春期臨床の鉄則みたいなものです。

信頼関係が構築されていれば登校刺激も有効

 次に「教条主義的な『登校刺激の禁止』の問題」についてですが、これは、ある程度、分厚い信頼関係が構築されている場合は、登校刺激はあってもいいということです。かなり元気になって相当いろいろなことができるけど、一歩前に進めないときにちょっと背中を押すというのは、当然あってもいいことです。

 「登校刺激はいけない」という教条に縛られていると、こんな状況でも登校刺激はダメだと思い込んでしまいます。登校刺激がダメなのは、信頼関係もロクにできていない段階のことで、いきなり学校に行けというのは不信感をもたらすだけのことです。「この人は自分のことをちゃんと考えてくれる人だ」という信頼関係があれば、登校刺激が有益に作用する場合があるのですが、過去にあまりにも乱暴な対応がなされたことに対する過剰な反省が「登校刺激の禁止」という誤った教条を生んでしまったと考えています。

 大切なのは、まずお子さんとかかわりをもち、働きかけながら状況を観察し、その 結果に基づいて、必要な分だけ対応の軌道修正をするということです。言わば試行錯誤をくり返しながら、お子さんに合った対応を模索していく感じです。たとえば、うまくいかなかったときはやり方を変えてみるとか、うまくいっていることはそのまま続けるとか、過去にうまくいったことは再度やってみるとか、これはブリーフセラピーの三原則ですが、こうした工夫をするだけでも大分変わってくると思います。

 親御さん側に余裕がないと、「これが正しいという思い込み」にしがみついてしまいがちです。試行錯誤は「言うは易く行うは難し」の際たるものであることを理解したうえで、柔軟にかかわっていただくことが大切です。いちばん関門になるのは、お子さんの前で親御さんが間違いを認めることだと思います。いまだにそれは沽券にかかわると思っている親御さんもいらっしゃるかもしれませんが、思春期の子どもは、すでに親は間違いだらけの存在であることは知っていますので、そこを取り繕っても仕方のないことです。むしろ、自分の間違いを認める度量があるかどうかで評価されると思っていただきたいと思います。

「いじり」という名のいじめ

 「いじめ問題の新たな様相」について申し上げたいのはひとつだけで、いま、いじめが起こっている構図のなかで、スクールカーストの問題が無視できないほど大きくなっているということです。スクールカーストとは学校内身分制、教室内身分制のことです。つまり、クラスのなかに身分制があるわけです。教育評論家の森口朗さんの『いじめの構造』という本によれば、およそ上位層10%、中位層60%,下位層30%という割合になっているそうです。いじめは、このカースト間で起こるこものが多く、ほかに同じカースト内で起こるものもあり、それは「いじり」と言うそうです。


図3
図3


 この「いじり」という言葉をみなさんも聞いたことがあるかと思いますが、いまの子どもたちのコミュニケーションのベースになっているのは、お笑い芸人風のコミュニケーションであり、お笑いの世界の用語である「いじり」も子ども社会に導入され、いじめを隠蔽するために使われています。

 「いじり」は明確にいじめという認識をもつ必要があります。こうしたごまかしがあると、先生もいじめの実態を追及する際にやりにくい部分があるわけです。
 「いじめているんじゃなく、だた、いじっているだけですよ」と言われると注意をするのもヤボったい気がして、先生が怯んでしまうことがよくあります。
 いじめの被害者側も「これはいじりであって、いじめじゃないんだ」と自分に言い聞かせて、納得してしまうことが起こりやすいので、この「いじり」という言葉の弊害は非常に大きいものがあります。

スクールカーストの背景にある「コミュ力」偏重主義

 では、なぜカースト(身分格差)が生じるかというと、中学生以上の生徒間の対人評価の基準がコミュ力(コミュニケーション能力)で一元化されているからです。つまり、コミュ力が高い人は偉い、低い人はダメという素朴な価値観です。まさかと思い、私も何度か検証してみましたが、そうとしか言えない現実があります。逆に言うとほかの能力、勉強とかスポーツとか、絵画や作文などの能力は一顧だにされないわけです。コミュ力が高い人がカーストの上位を占めていて、コミュ力の低い人は下位層で決まりということです。

 この階層はほぼ一年間、固定されるため、いったんいちばん下の階層に入った人は地獄を見るわけです。この階層は誰かが決めているわけではなく、“空気”が決めているのです。スクールカーストのひとつの起源はアメリカですが、もうひとつの起源は、我われ日本人全体がもっている空気主義といわれるものです。つまり、空気に物事を決めさせるという、「共同責任は無責任」的な構図を模倣したのがスクールカーストと言えそうです。

 これはいじめの構造の問題であると同時に若者のコミュ力偏重というブームの象徴でもあるわけです。本来、コミュニケーション能力とは、自己主張力、共感力、同調力などの総称だと思いますが、実際には笑いのとれる能力であり、空気の読める能力であり、人をいじる能力のことです。若者の間では、この3つの能力が高い人はコミュ力が高いとみなされるわけです。この能力は就職したら使えませんので、学校ではコミュ力が高いと思われていた人が就職でつまずくことが多いのは、学校的価値観と企業的価値観のギャップが大きいからです。その点でも、そこに段差をつくってしまうという意味で問題なのです。

 これは子どもの世界の裏文化なので、先生が表立って介入しにくい面があると同時に、こうした状況が全く見えていない先生も多くいらっしゃいます。もうひとつの問題は、スクールカーストの存在に気づいている先生が、それを利用している状況があることです。スクールカーストは非常に便利で、上位層10%の生徒の気持ちを掌握するとクラス管理がすごくラクになるわけです。ただでも忙しい先生が上手にクラス運営をするために、生徒の上位層にうまく取り入って、円滑に行う手段に使っているようです。熱心な先生ほどその傾向があると鈴木翔さんの『教室内(スクール)カースト』という本に書いてありました。

カーストの破壊がいじめ予防の第一方策

 こうしたスクールカーストの現実がいかに過酷なものか、不登校の潜在人口を増やしているかということは想像に難くないわけです。親御さんにできることは学校の先生に働きかけてカースト化を防ぐことであり、それが極めて重要な意味をもつことになります。たとえば、カースト下位の生徒は毎日がつらいので、それだけでも不登校の原因になりやすいわけです。上位層は上位層でカーストの下位に転落することに怯えながら生きている生徒もいますから、何かにつまずくと学校に行けなくなる可能性が高いのです。いろいろな理由になりやすのがスクールカーストという構図の問題点です。

 では、どうしたらカーストを壊せるのかというと、意外と簡単で、席替えと班替えを頻繁にやれば壊れます。「うちのクラスには身分差はつくりません」と目的を明確にした宣言をして、席替えと班替えを定期的やることによって予防ができます。これは私が実際に運営している「ひきこもりデイケア」で実践してみました。ただ、ここで大切なのは、管理する側がちゃんと見ていることを意識してもらうことと、生徒の物理的な配置をランダムに引っかき回すとカーストは非常に生じにくくなるということです。つまり、カーストを破壊するためには、いろいろな生徒が互いに接し合う機会を意図的に増やしていくことです。 

 その程度の工夫でカースト化を防げるのであれば、どんどんやっていただきたいと思います。なぜなら、カーストの下位にとどまった子どもは、その記憶を一生ひきずる可能性があるからです。
 自分は中学校でカースト下位の人間だったという烙印は簡単には消えません。その後、いい大学や会社に入ったとしても、なかなか拭いきれないほどのトラウマ的な体験になりやすいことを考えると、このカーストを放置してよい理由はどこにもない。カーストの破壊は、いじめ予防の一番目の方策として重要であることを申し上げておきたいと思います。

 いじめ問題の対応策としては、まず、いじめの被害者は後遺症を抱えやすいということがあります。いじめが原因で不登校になったり、ひきこもりになった人は、そのトラウマを生傷のようにずっと抱えながら生きています。もし、いじめによるトラウマが自然に消えることがあり得るとしたら、その後の人生で経験したさまざまな親密で善意に基づく有意義な人間関係によってトラウマが上書きされたときだけです。被害者の支援でいちばん大切なルールは、被害者を決して責めないことです。被害者批判はタブー中のタブーと思っていただきたい。

 次に、日本の学校で遅れているのは加害者対策です。ちゃんとペナルティを与えて対応すべきなのですが、加害者の親御さんからの攻撃を恐れて、被害者が泣き寝入りしてくれればいちばん簡単であるといった発想に陥りやすいのが残念ながら学校現場の実情です。被害者の親御さんとしては、それを許さないという姿勢をもつことがとても重要です。

 そうした前提で解決に至るまで、その解決の落とし所に納得いくかどうかは別して、被害者のお子さんと親御さんがやるべきことはすべてやり尽くしたという実感を共有できるかどうか。それが、いじめ体験が親不信にまで広がらないための唯一のプロセスです。

診断名から消えてもレッテルとして残った「アスぺ」

 最近、不登校は発達障害の視点から論じられることが多くなってきているように思います。あまりにも急速に発達障害が“ブーム”になってしまったので、不登校をめぐる子どもの人権問題に関する繊細な議論がどこかに吹っ飛んでしまった印象すらもっています。これは好ましいことではありません。

 それは、日本は世界で発達障害がブーム的に受容されている唯一の国だからです。特に「アスペルガー症候群」という診断名は、DSM(米国精神医学会が作成している心の病気に関する診断基準)から削除されたにもかかわらず、日本社会のなかではレッテルとして機能しています。日本は過剰な空気読み文化ですから、空気が読めない、挙動不審のような浮いた人については「アスペ」というレッテルが非常に便利なのです。

 さらに困ったことには、アスペ扱いをされた人は、さらに挙動不審になっていくという悪循環があります。「やっぱりそうか」と思い込まれやすい状況があるわけですが、それは明らかに間違いです。DSMという診断基準は非常に価値のあるものなので、そうした乱用はしていただきたくないことを申し上げておきます。私は発達障害を否定しているわけではなく、むしろこの診断名の導入で大いなる恩恵を受けましたが、その一方でいまのブームに関しては、副作用が大きすぎることも同時に指摘しておく必要があると思っています。

 最近、新しい診断基準であるDSM-5ができて、アスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害」という診断名に統合されました。
 その自閉症スペクトラム障害には、以下の3つの問題があります。

 ①社会的・感情的相互作用の欠陥
 ②非言語のコミュニケーション行為の欠陥
 ③関係づくり、その維持、そしてその理解の欠陥

 さらに、社会的コミュニケーションに関するものですが、「常同的または反復的な運動性の行動」「強く制限された狭い領域への興味」「環境に対する感覚への普通ではない認知上の歪み」などの問題もあります。

 コミュニケーション、社会性、行動面の問題と3つの視点から発達障害と診断することが多いわけですが、気をつけていただきたいのは、この3つのうちどれひとつとして、はっきりとした定義づけがされていないということです。つまり、社会性とは何か、コミュニケーションとは何かといっても漠然としています。また、常同行為といっても、同じことをくり返すのは子どもがよくやることですので、実はどこまでが異常かという線引きはできません。


図4
図4

曖昧な発達障害の診断基準

 たとえば拡大解釈をすると、この診断基準で現在のひきこもりの人を診たら、ひきこもりの50%以上は発達障害と診断されてしまうでしょう。本当は違うわけですけど。つまり、診断基準の問題点は数量化できないので、非常に曖昧だということです。

 仮定として、発達障害は脳の先天的障害ということになっていますが、それを見た人は誰もいません。バイオマーカー(人の身体の状態を客観的に評価するために指標となる物質)も存在しません。にもかかわらず、脳の先天性器質性異常というのが自明の前提になっていますから、いろいろな問題が起こっています。それを診断するためには曖昧な基準に基づくしかありません。

 さらに、心理検査、知能検査を行って、動作性IQと言語性IQにこれだけ違いがあるから発達障害ですと断定的に言う人がいますが、それは間違いです。心理検査は補助診断としては役に立ちますが、確定診断の根拠にはなり得ません。残念なことに、こんな常識も医療現場では失われています。そうしたパズルゲームのようなやり方で診断をしているものですから、過剰診断の弊害がいつまで経っても消えないわけです。

誤診、過剰診断、レッテル貼り、つけ捨て

 「発達障害」診断の問題は大きく2つあります。ひとつは、医療の現場で見過ごされてきたことです。私より上の世代の精神科医は、発達障害の知識をほとんどもっていません。私が今日お話ししているのは後づけで勉強した知識です。

 後づけで勉強した結果、私自身が複数の発達障害と思われる患者を診たことにあとで気づきました。言い訳をすると、それは成人の発達障害、未診断の発達障害が多いことが最近になってようやく話題になってきたこともあります。

 そのため、医療現場では、見過ごすという意味での誤診が起こりやすいことと、医療以外の現場では過剰診断の傾向、レッテル貼りの傾向が見られます。確実な判断の根拠が何ひとつないのに、なぜか発達障害を診断する人は断定的な口調になりがちです。正しくは、「この人は何%ぐらい発達障害の疑いがあります」と言ってほしいところですが、そうした慎重な言い回しをする人はあまりいません(図5参照)。


図5
図5


 先ほどもふれましたが、診断そのものが「空気を読めずに孤立しがちな変わり者」へのレッテルになっています。発達障害と診断された人は、そう思われてしまうと、ますます頑なになってしまい、事後的に正しい診断であるかのように偽証されやすい問題があります。

 加えて、診断基準が曖昧で恣意的です。ある精神科医によれば、最近、流行しているのは「つけ捨て」だと言われています。つまり、「発達障害ですよ」と診断名だけつけて、あとは専門家に診てもらってくださいという対応です。

 私は診断に関しては、責任をもって、そのお子さんのケアができる立場でないかぎり、診断すべきではないと思っています。もしくは、確実に診てもらえる専門家を確実に紹介できる人であれば、診断しても許されるかもしれませんが、それ以外の人は診断すべきではないというのが私の立場です。
 不登校の子どもたちのなかに、そうした「つけ捨て」の犠牲になっているケースが多い可能性があることを考えると非常に残念です。

 発達障害の診断は、非常に難しいです。その場面でのふるまいとか態度や言動を見ただけでは診断できません。発達歴も含めて複数場面における、ある程度、時間をかけた観察によって、縦断的に判断しなければ発達障害の診断はやってはいけないことです。一場面での態度や言動を取り出して診断することは誤診の元です。

 さらに、短期的な情報の集積だけでも診断はできません。発達障害というふれ込みで紹介されてきた患者さんを治療したところ、治ってしまったというケースをたくさん見てきました。本来なら脳の障害なんですから、精神療法で治ったらおかしいわけです。つまり、誤診だったのです。

次のステップにつながる診断のメリット

 発達障害の診断は、特別支援教育の適用が可能か否かを確認するうえでは重要なものですが、逆に不適切な適用をされると当事者をおとしめることにつながるため大問題になります。
 ただ、その診断を下すことによって、本人の自己洞察が深まったり、生きやすさが増したり、居場所が見つかったりすることにつながることがあるので、診断はとても重要です。重要であるからこそ乱用してほしくないわけです。ただでも少ない受け皿が、それを必要としない人たちによってあふれてしまったらもったいないじゃないですか。

 そのため、冒頭で申し上げた正常化バイアスで見ようということには、すぐ発達障害と決めつけるなという意味も含まれています。たとえ、その場面でのふるまいが多少不自然だとしても、少し辛抱して観察するなかで、だんだんと健康な顔が見えてきたら、最初の顔は間違いだったと素直に認めて、それなりの対応をしていきましょうということを素朴に提案したいだけです。

 現在は各自治体に発達障害支援センターが設置されていますので、そうした機関を利用することをお勧めしますが、ひとつの医療機関での診断が納得いかない場合は、セカンドオピニオンやサードオピニオンなどを受けるべきだと思います。専門家でもしばしば誤診をしている領域ですので、時間をかけて複数の視点から慎重に診断を下していただきたいと思います。
 なお、診断された場合には、遠慮しないで「どの部分がそうなんですか?」と必ず根拠を聞いてください。

効果がない家庭内暴力における入院治療

 先頃、八王子市の「三男殺し事件」の判決が出ました。あれは成人の事例でしたが、起きている構図はいわゆる家庭内暴力とほとんど同じです。
 家庭内暴力による親殺し、子殺し事件は散発的ではありますが、この30年間ずっと起こり続けています。欧米でも散見しますが、これだけ定期的に起きているのは日本ぐらいです。米国や英国などでは子どもが親を殴ること自体あり得ませんから、こうした暴力は続いて起こることはないわけです。

 この問題は不登校やひきこもりに比べれば、非常に解決が容易であることを知っておいていただきたいと思います。件の「三男殺し事件」でも対応の仕方がいくらでもあったと思いますが、残念ながら専門家も入院させるべきか否かというところで悩んでいて、とても的確な対応とは思えません。

 家庭内暴力に対して入院治療は効果がありません。これは夫婦間暴力の際に「夫を入院させろ」と言う人が誰もいないのと同じことです。まして、強制入院などではまったく解決しません。なぜ入院で解決すると思い込んでいる人が多いのか不思議です。くり返しますが、入院治療では暴力問題は解決しません。退院後に家から追い出すなら話は別です。その場合は暴力を振るえませんから。でも、家に戻すつもりで入院させるのであれば、意味がないのでやめてください。

 ちなみに、暴力の定義ですが、「相手のプライバシーに相手の意図を超えて介入する行為」は、すべて暴力です。夜中にたたき起こして土下座させるのも暴力です。大声で迷惑をかけるのも暴力です。携帯電話を盗み見るのも暴力です。

 これらはすべて夫婦間暴力の定義に明記してあります。当然のことですが、夫婦間でそうしたことが行われている家庭では、親が手本を示しているわけですから、暴力は止めようがありません。親御さんが暴力を振るい合っている間は終わりませんから、まずは夫婦間の暴力を止めるところから始めることになります。
 まとめると、「威嚇して相手を意のままにする行為」はすべて暴力というのが前提です。それは子どもであろうと大人であろうと、決して許されないということです。

対応法の大前提は暴力を拒否すること

 家庭内暴力への対応法の1つ目は、退行させないこと、つまり、子ども返りを起こさせないことです。
 スキンシップを増やしましょうとか、ハグしてあげましょうとか、そうした対応を勧めていったん赤ちゃんに返してから育て直しをしましょうということを無責任に言い放つ専門家が、さすがに最近は淘汰されてきたと思いますが、まだまだ多いように思います。
 こうした対応は、一歩間違うと家庭内暴力の温床になりますから、注意が必要です。退行促進技法が無効と言いたいわけではありませんが、ケースを選んで専門家の管理下でやらなければとんでもないことになる可能性がゼロではないということです。この退行促進という間違った方法論をむやみに振り回さないでいただきたいと思います(図6参照)。


図6
図6


 2つ目は、初期段階の暴力には、親御さんが刺激をしている、皮肉や嫌味などを言っていることなどが原因で本人が怒って暴れているというケースが意外と多いのです。親御さんは無自覚にやっているので、気づかない。こうしたケースは簡単で、親御さんの刺激を止めればいいわけです。

 いちばん難しいのは、きっかけなしで暴れているケースです。多分、八王子の三男もそうだったのではないかと思いますが、ちょっとしたことで不平不満を言って、言いがかりめいたことで暴れ出すわけです。

 一見、やっかいそうですが、対応はそんなに難しくはありません。すべての暴力への対応の基本は、暴力は拒否するということです。これが大前提になります。
 これは当たり前のように思えるかもしれませんが、実は90年代までは専門家ですら「子どもの暴力は受け入れましょう」と言っていました。さらには、「親の育て方が問題なんだから、そのくらい我慢しなさい」とまで言う専門家もいました。

 私はこれを「受容神話」と呼んでいます。何でも受容していればうまくいくといった根拠のない方法論が80〜90年代のカウンセリング業界でまかり通っていましたが、これは間違いです。

 特に受け入れてはいけないのが暴力です。たとえば、DVに関して「夫の暴力は愛の証だから受け入れましょう」と言う人がいたらお笑いぐさですよね。同じように子どもであろうと、暴力に甘んずる必要はいっさいありません。暴力拒否以外の対応策はないということをご理解いただきたいと思います。
 ただし、拒否というと「ダメ」と言う人がいますが、「ダメ」は禁止です。「ダメ」じゃなく拒否なので「イヤ」と言っていただきたいのです。「ダメ」と言ったら解決しませんが、「イヤ」と言ったら解決します。問題はちゃんと言えるかどうかです。

避難と通報が最も簡単な暴力拒否のパフォーマンス

 演技力のある親御さんは、態度で示すだけで暴力が終わることが多いです。ところが、ちゃんと「イヤ」と言えないことが多いわけです。なぜかと言うと自己処罰欲求がある親御さんが多いからです。つまり、「私のせいでこの子はこんなことになってしまった」という罪悪感があったりすると、せめて殴られてあげなければ帳尻が合わないと考えがちです。こうした考え方をしてしまうと暴力は止められません。それはまったく別問題であり、殴らせて解決というのはあり得ないということです。殴らせてあげているうちは暴力がエスカレートするだけです。本人がかわいそうですから、暴力は振るわせないであげてください。

 なかなか子どもの暴力に対して「イヤ」という意思表示ができない場合は、避難と通報というパフォーマンスで対応してください。この避難と通報が暴力拒否のもっとも簡単にできる意思表示です。ただし、適切なやり方があります。場当たり的にやってはいけません。ちゃんと前もってルールを決めて、お子さんに予告して、予告通りに実行して初めてこのパフォーマンスは活きるわけです。

 たとえば、暴力に関しては、「器物損壊とか身体的暴力があったら通報します」とあらかじめ決めてください。それ以外の部屋を水浸しにするとか、衣類を切り刻むとか、大声を出すとか、夜中にたたき起こされるとか、そういう暴力に対しては避難で対応してください。そのように決めたらお子さんに予告してください。そして、実際に起こったら杓子定規に実行していただきたいと思います。その流れがしっかり実行できれば、だいたいの暴力は終わりますし、私は家庭内暴力の相談には、すべてこのやり方で対応しています。これはやり方さえわかっていれば、誰にでもできますが、実行力があるかどうかが問われる問題です。

 こうした家庭内暴力があるうちは、不登校などの問題にまともな対応ができなくなってしまいますので、こうした解決しやすい問題は早く片づけて、次のステップに進んだほうがいいと思います。そうすることが、こじれて長期化したり、ひきこもりになることを防ぐことにつながっていくと思います。

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