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登進研バックアップセミナー78・講演内容

 

さよなら不登校②~こうして彼らは一歩を踏み出した


*「不登校体験者と直接話せる、質問できるセミナー」では、参加者の方々が10〜20人のグループに分かれて一人のゲスト(体験者)を囲み、自由にお話ができるようにしました。1グループに1人のカウンセラーが世話役として加わり、お話の整理をしています。以下の抄録で「Q」とあるのは、参加者の方々から体験者に向けての質問です。
*ゲストのお名前はプライバシーを考慮して仮名にしています。ゲストおよび世話役の肩書きと年齢は、セミナー開催時のものです。

 

ゲスト

笠間卓哉(会社員、26歳)

世話役

池亀良一(代々木カウンセリングセンター所長)

 

笠間卓哉さんのプロフィール

●不登校の期間:小学校5年の夏休み明けから中学校卒業まで。
●不登校のきっかけ:不登校のきっかけ:小4の半ばに転居し、転校先でいじめにあう。夏休み中に休み癖がついたのか学校に行くのが嫌になり、そのままずるずると“インドア生活”に入った。
●保健室登校:中学生のときは保健室登校をしていたが、先生に「きみがいつも保健室にいると他の生徒が入ってこれない」と言われ、再び家での生活に戻ってしまった。適応指導教室の見学にも行ったが、他の学校内にある教室を利用した施設だったので通う気になれになかった。
●不登校中の生活:親とは普通に会話をしていたが、ずっと顔を合わせているのはつらいので、自分の部屋で過ごすことが多かった。そのためか不登校になって間もなく母はパートに出るようになった。当時の生活は、それなりに規則正しくて昼夜逆転はなかった。毎朝10時のFMラジオ放送を聴きながら1時間くらい勉強をして、その後、テレビのニュースを観て、12時になったら『笑っていいとも!』を観ながら朝昼兼用の食事をとり、13時からは『大好き!五つ子』を観る、というのが一日のメニューだった。
●動き出すきっかけ:中3のとき、学校にカウンセリングを勉強中の女子大生が来ていて、その人がメンタルフレンドとして、週1回、1時間、家庭訪問をしてくれた。ある日、その人が「キャッチボールをしよう」と外に連れ出してくれた(笠間くんは野球少年だった)ことが、動き出すひとつのきっかけになったと思う。
●現在の状況:大学では社会福祉を学ぶ一方で、教職の資格も取得した。学校の先生もやりたいし、介護の現場に行きたいという気持ちもあったが、その前に一度、サラリーマンをやってみようと考えた。大学で社会福祉を専攻した関係もあり、現在は、有料老人ホームやグループホームなど、トータル介護サービスを展開したり、ホームヘルパーの資格取得講座を開設している会社に勤務している。

「消えたい」と「変わりたい」という拮抗する2つの思い

     

Q

 小中学校での出席状況はどんな感じでしたか?

笠間

 小5で不登校になってから、何日か保健室登校をしましたが、それ以外は登校していません。中学校でも入学式には行きましたが、翌朝は腹痛が起こって気分が悪くなり、それにかこつけて、「行きたくない」と休みはじめました。
 その後、保健室なら行けるということで、他の生徒の登校時間とぶつからないように30分くらい遅れて保健室に通い始めました。保健室登校は夏休み前まで続きましたが、ある日、先生に「保健室にいつもきみがいると入ってこれない生徒もいる」と言われて、隣の多目的教室に移動させられました。多目的教室では一日中ひとりで過ごし、ひとりで勉強するだけなので、来る意味があるのかなと思いはじめ、「保健室の邪魔になるから来ないでくれ」というメッセージかなと勝手に思ったりして、また行かなくなりました。
 その後、週1回、中学校からの指示でカウンセリングを勉強中の女子大生がメンタルフレンドとして家庭訪問に来てくれるようになり、その日は出席扱いにしてくれました。

 

Q

 中学校になってもいじめが続いたのですか?

笠間

 中学校に進学する際、自分をいじめた生徒には会わないようにと、親が同じ小学校から1〜2名しか入学しない中学校を選んでくれました。
 ところが、いじめがなくなり、環境が変わっても、家にいるほうが安心感があるので、毎朝行こうとはするんですが、腹痛が起こったり気分が悪くなったりで、結局、休んでしまう。地元の中学校なので、出歩くと知人に会ったりするのが嫌で、昼間は外出しなくなり、学校の終業時間が過ぎたら過ぎたで、また誰かに会うかもしれないので出歩くことはなくなりました。逆に、地元からずっと離れた場所なら行きやすかったのかもしれません。

 

Q

 不登校中はずっと家にひきこもっていたのですか?

笠間

 まったく外に出なかったわけではありませんが、小学生のときに転校してすぐに不登校になったので友だちがいないこともあり、平日の昼間は外に出にくかったのは確かです。母がパートに出るようになってからは、日中は家でひとりだったので、朝食兼昼食を買いにコンビニに行ったりする程度の外出はしていました。

 

Q

 ひきこもりぎみになると床屋にも行けないので髪が伸びたりして、よけいに外出できなくなったりしませんか?

笠間

 私の場合は髪が伸びすぎて外出しづらくなるという経験はありませんが、いじめの原因が自分の体型的なことだったので、人に会いたくない、人に見られたくないという気持ちがありました。
 床屋には普通に行っていましたが、昔からのなじみの店だったので何も言われませんでした。ただ、体型のことが気になって人に見られたくなかったので、床屋に行くのは朝の7時頃とか、人のいない時間帯でした。

 

Q

 不登校中にどんなことを考えていましたか?

笠間

 不登校中によく思ったのは、「消えたい」ということでした。痛いのは嫌なので、どうしたら楽に死ねる(消える)だろうといつも考えていました。
 その一方で、「変わりたい」という思いもすごくありました。当時、午後1時から『大好き!五つ子』というテレビドラマをやっていて、同年代の若者たちの悩みや不安、喜びなどを扱っているのを観て、「やっぱり学校に行けば楽しいんだろうなあ」「ドラマの若者たちのように変わりたいなあ」という気持ちは強かったです。でも、現実は学校に行っても友だちはいないし、勉強にはついていけないし、という不安があって……。
 そうしたマイナス要因を取り除けば、学校に行きたいという気持ちはありました。矛盾している2つの気持ちが拮抗している感じでした。

 

動き出すきっかけは?

     

Q

 お母さんがパートに出たことについて、どう思いましたか?

笠間

 お互い一日中家にいて顔を突き合わせているよりは、母も精神的に楽だったのではないでしょうか。今でもたまに、「あなたと5年間ベッタリつきあわないでよかった。仕事をしていたからストレスを発散できたのよ」と言われます。なんで今になってそんな言われ方をされなきゃならないんだろうと思うんですが(笑)、当時は私が家にいること自体、悩みのタネだったのでしょうから、パートで不安を発散していたのかもしれません。私自身にとっても、家に自分以外誰もいないことは楽でした。ひとりでいてもいいんだということが精神的に楽でした。

 

Q

 昼食はひとりで食べていたそうですが、コンビニ弁当とお母さんの手づくり弁当では気持ち的に違いはありましたか?

笠間

 不登校になった直後は、母が昼食用に弁当を作ってくれていましたが、パートに出るようになってからは、外に弁当を買いに行ったりしていました。どちらがいいかと言われたら、はっきり言ってコンビニ弁当のほうがよかったですね(笑)。母のはレパートリーが少なくて、昨日の夕飯とほぼ同じメニューになってしまうんです(笑)。

 

Q

 動き出すきっかけになったことはありますか?

笠間

 不登校中は、朝10時のFM放送を聴くことから始まり、一日のスケジュールがだいたい決まっていました。毎日そんな生活リズムで過ごしながら、中2、中3と時間が経っていくなかで、メンタルフレンドの方とも「そろそろ高校の進学先を考えないといけないね」と話し合っていた頃、父がサポート校の一覧表を見せながら、「こういう学校はどうなんだ?」と聞いてきたんです。
 自分でもそろそろ動かないといけないと思っていたので、そういう学校があるなら見学に行ってみようということで、メンタルフレンドの方と母と一緒に3人で見学に行きました。それが高校進学に向けて動き出すきっかけになったような気がします。メンタルフレンドの方のはたらきかけと、父からの進学先についての情報提供が、ちょうどいいタイミングで重なったというか。

池亀

 笠間くんは、不登校中も自分なりにスケジュールを立てて生活するなかで、「家の中にいると安心だった」と言っています。これはとても大事な要素だと思います。
 日中はひとりでいることが多かったようですが、それでも家の中にいると安心感があった。このことは、笠間くんが次のステージに進むためのエネルギーをためていくときに、とても重要な要素になったのではないでしょうか。

笠間

 安心できるといっても、両親にベッタリ依存していたわけではありません。母は、よくこのような不登校関係のセミナーに参加して、帰ってくると、「今日はセミナーでいろいろ聞いてきたから、明日からあなたにはこういう感じで接するからね」と私に宣言するんです(笑)。みなさんは、今日、帰ったらそういうことを決して言わないであげてください。息がつまっちゃうんで(笑)。

 

「人間が信じられない」という気持ちが少しずつ変わっていった

     

Q

 当小5から中3まで自宅にひきこもっていたのに、なぜサポート校に入学後は友だちとの人間関係につまずくこともなく、高校生活を送れるようになったのでしょうか?

笠間

 小学校のときにいじめられたのは親しい友だちからだったので、その後、人間が信じられなくなるなど、マイナスのことしか考えられなくなりました。ところが、メンタルフレンドの方と世間話をしたり、人間関係を築いていくうちに、人とのコミュニケーションって楽しいものなんだと思うようになったんです。メンタルフレンドの方は女子大生だったので年齢的に自分と近くて、そういう他人とのコミュニケーションがとれたことが、自分にとっては大きかった。
 サポート校で、同じ不登校経験をした人や同じような悩みを抱えている人と話をして、お互いにわかり合えたことも安心材料につながりました。そこから自分の考え方が変わっていったような気がします。サポート校の先生方が、不登校を経験した生徒への対応の仕方をよく知っていることにも助けられました。

 

Q

 サポート校には休まず通えましたか?

笠間

 電車通学でしたが、休まず通っていました。ただ、ひとつだけ体育合宿などの宿泊行事だけは参加することができませんでした。実は、小4のとき、2泊3日の移動教室に行ってホームシックになったことがあって、それ以降、家を離れることに不安を感じるようになってしまったのです。それが尾を引いていて、サポート校の3年間も宿泊行事だけは参加できませんでした。現在は、その反動かもしれませんが、会社の同期の友人たちと毎月のように旅行に出かけています。
 先ほども少しふれましたが、サポート校の先生方は生徒一人ひとりの個性を見抜く力に長けていて、対応も的確だったように思います。私の性格や個性を理解したうえで、日常的に自分に合った役割を与えてくれました。私は人前に出たりすることがあまり苦にならないタイプなので、学級委員に指名されたり、自分を人前でどう表現していくかという場を与えてもらったような気がします。

池亀

 そのことに関連して、当時、よくラジオの深夜放送を聴いていたそうですが、それについて少し話していただけますか。

笠間

 私はラジオ番組が好きで、夜中の1時頃に『オールナイトニッポン』などをよく聴いていました。なかでもリスナーの投稿コーナーが楽しみで、私と同世代の人たちには、こんな面白いことを考えながら学校に通っている人もいるんだと……。顔も見えない同世代の人たちに共感したり、共通点を見出したりすることも、私にとっては他人とふれあうシミュレーションだったような気がします。

 

学習の遅れをどう克服するか

     

Q

 小5から中学校卒業まで学校に行っていないとのことですが、サポート校で学習面のハンディを感じたことはありませんか?

笠間

 サポート校に入ったときは小5の学力しかなかったのですが、学力別のクラス編成になっていたので、いちばん初歩のクラスで基礎学力を身につけるところから始めました。恥ずかしい話ですが、足し算・引き算から始めて、国語も古文とは何か、漢文とは何かというところからのスタートでした。そのなかで一歩一歩無理なくステップアップできるようなカリキュラムが組まれているので、学習面でのつまずきはありませんでした。

池亀

 学習面のことで、私から少し補足しておきます。一般的にサポート校には、中学校に一日も行かなかった生徒も入学してきますので、生徒一人ひとりの学力に応じた学習指導が行われます。とくに笠間くんの通ったサポート校は、習熟度別のクラス編成になっていて、一人ひとりの生徒に対して不登校によって抜け落ちている部分を集中的に克服していく個別対応の授業を行っています。笠間くんの言うように、足し算・引き算とか九九や分数から始めることもめずらしくありません。そうして基礎をしっかり学び直すことで、自信を積み上げていくわけです。

 

Q

 大学受験に際して苦労したことはありますか?

笠間

 サポート校の先生からは、「評定も高いし、今から受験勉強するのは大変だから、推薦枠のある大学に行ったら?」とアドバイスされましたが、推薦で入学するのは嫌でした。なぜなら、先生方の手厚いサポートで甘やかされて3年間を過ごしたわけで、もっと勉強で苦労して、浪人してでもさらに上の大学に行きたいと考えていたからです。
 その頃は進学クラスに在籍していたので、なんとか浪人生活もやっていけるだろうと思っていたのですが、実際に予備校に通いはじめたら授業にまったくついていけず、「井の中の蛙」だったことを思い知らされました。これはかなり頑張らないと落ちこぼれになるなと危機感を抱いて、毎日、教室のいちばん前の席に陣取り、とにかく先生の話を一所懸命聞くことに集中しましたが、偏差値は30〜40台までしか伸びませんでした。
 それでもある大学に合格し、第一志望ではないものの一年間努力した結果として自分でも納得したのですが、残念ながら学費が用意できずに入学を断念しました。これではまたひきこもり生活に戻ってしまうなと落胆していると、親から「来年はちゃんとお金を準備するから、もう一年予備校で頑張ってみたら」と励まされ、浪人2年目に突入。さすがに2年目ともなると学力もアップし、納得のいく大学に入学できました。
 大学では社会福祉を専攻しましたが、普通の大学生なら知っていて当然の知識がけっこう抜け落ちていて、血液にはヘモグロビンが含まれているといった中学生レベルのこともまったく知りませんでした。そういう知識面では苦労しましたが、新しい知識として覚えれば済むことなので、不登校中のブランクが大学の勉強に影響したとは思っていません。

池亀

 笠間くんは、大学で社会福祉を専攻すると同時に、教職の資格もしっかり取得しています。いずれ学校の先生になるのかもしれませんが、その前に一度サラリーマンを経験してみたいということで、介護サービス関係の会社に就職したそうです。

 

サポート校ってどんなところ?

     

Q

 サポート校の話題がたびたび出てきますが、サポート校とはどういう学校なのか、もう少し具体的に教えてください。

池亀

 このご質問については、私のほうから説明させていただきます。
 サポート校とは、通信制高校と連携して、高校卒業資格取得のための学習面・生活面でのサポートをする民間の教育機関のことをいいます。通常、通信制高校の生徒は、自宅に届いた教材を使って自習し、レポートを提出することによって単位を取得します。しかし、中学校時代に不登校だった生徒が自力で課題をこなしていくのは決して簡単なことではありません。そこで、通信制高校のカリキュラムに合わせて単位取得のためのレポート作成の指導をし、生活面の指導も行い、高校卒業に向けた支援を行うのがサポート校です。
 加えて、通信制高校に在籍しながらも、できれば全日制高校と同じような高校生活を楽しみたいと思っている生徒も多いことから、多くのサポート校には、制服があり、部活があり、文化祭や運動会、修学旅行などの行事もありというように、普通の高校生活と変わらない環境が用意されています。
 サポート校にもいろいろあり、居場所づくりを主目的としたフリースクールに近いところもありますが、笠間くんが通ったサポート校はきちんと校則もあり、金髪やピアスなどは禁止で、生徒たちが安心して学べる環境を大切にしている学校です。不登校によって勉強面で長いブランクがある生徒についても、各自のレベルに合わせて小中学校の基礎から個別に教えてくれるため、学習面でのつまずきは克服できると考えてよいと思います。
 ちなみに笠間くんの場合は、小学校でやっていた野球をもう一度やりたいという希望があり、野球部のあるサポート校というのが選択の条件のひとつだったようです。

 

Q

 サポート校とチャレンジスクールは別のものですか?

池亀

 チャレンジスクールは不登校経験のある生徒が学びやすいように設置された都立高校で、現在、6校ほどあります。1部(午前)、2部(午後)、3部(夜間)の3部制になっていて、好きな時間帯の授業が受けられる定時制高校です。ただし、サポート校とは違って出席が前提となりますので、欠席が多いと単位取得が困難となり、他の都立高校と比べると中退率も高くなっています。

 

不登校中のブランクを取り戻すかのようにさまざまなことに挑戦

     

Q

 親としては、勉強も大事ですが、学校に行って行事に参加したり、友だちとのふれあいを少しでも体験してほしいと思っています。笠間くんには、そうした機会が少なかったようですが、今、ふり返ってどう思われますか?

笠間

 不登校中の唯一の後悔は、そのような体験ができなかったことです。いわゆる“青春”というものがまったくありませんでした。文化祭や体育祭も経験できなかったし、その準備などで友だちとふれあう機会もありませんでした。
 その反動なのか、サポート校や大学に入ってからは一気に青春を謳歌しようと、あれもやってみたい、これもやってみたいと、バイトをはじめいろいろなことに挑戦しました。中学校時代に普通の中学生が体験することをやれなかった後悔はありますが、逆にそれを取り戻そうとして、高校時代、大学時代を駆け抜けた感じがしますので、今ではあまり悔いはありません。

池亀

 中友だちづくりという意味でいえば、適応指導教室に通ってみてもよかったのかなと思うんですが、適応指導教室のどこが嫌だったのかな?

笠間

 中1の担任の先生が、学校に来られないなら同世代とふれあえる居場所に行ったほうがいいのではないかと、地元の適応指導教室をすすめてくれて、担任と母と自分の3人で見学に行ったことがあります。ところが行ってみたら、ほかの学校内にある空き教室を利用した施設だったので、学校っぽいイメージが強くて通う気になれませんでした。それと、ここに通うようになったら、毎朝10時のFM放送が聴けなくなるなあと思って(笑)。結局、その後一度も行きませんでした。

池亀

 カウンセリングにも通う気になれなかった?

笠間

 母は、適応指導教室が嫌ならカウンセリングに通わせたほうがいいかなと思ったようで、試しに一度だけ行ってみました。そうしたら、カウンセラーがいきなり、「何がつらいの?」「何をされたの?」と問題の核心を衝くような質問をしてきて……。当時、その部分については話したくなかったし、他人にふれてほしくなかったので、この先生とは合わないと思って二度と行きませんでした。私にとっては、カウンセリングよりも家という空間のほうがはるかに安心できる居場所でした。

 

たまたま選んだ福祉の道、でもこの道に進んでよかった

     

Q

 福祉の道に進んだきっかけはなんですか? また、今はどんな仕事をされているのでしょうか?

笠間

 大学受験の際、狭く深くひとつの分野を勉強するよりも、広く浅くいろいろなことを知りたいと思って社会学部を目指したのですが、たまたま立教大学のコミュニティ政策学部に合格したことから福祉を専攻することになりました。
 大学では、とくに知的障害者に対する福祉を専門的に勉強しました。実習のなかで発達障害をもつ不登校経験者との出会いもあったりして、結果的には福祉の道に進んでよかったと思っています。
 現在、勤めている会社は、有料老人ホームやグループホームなどの経営を中心に総合的な介護サービスを展開していて、ホームヘルパーの資格取得講座も開講しています。その管理部管理課という「何でも屋さん」といった感じの部署で働いています。
 先ほど、池亀先生からご紹介があったように、教職資格も取得しているので、教育現場で働くことを考えた時期もありました。でも、いきなり福祉や教育の現場で働くには、自分はまだまだ未熟なんじゃないか。もっと世の中を見て、もっともっと社会にもまれてからのほうがいいのではないかと思い、サラリーマンを選びました。石の上にも三年ではありませんが、当面3年間はいくらつらいことがあっても今の仕事にかじりついていこうと思っています。その結果、この仕事は合わないとか、やはり学校の先生をやってみたいとか、福祉の現場で働きたいという気持ちが出できたら、その段階で考えればいいかなと思っています。

 

Q

 就活の際、不登校や二浪したことがハンディにはなりませんでしたか?

笠間

 ある会社の面接でかつて不登校だったことをカミングアウトしたところ、それが影響したのかはわかりませんが不採用になりました。それ以来、不登校だったことを言わないようにしました。
 今の会社に入社してから、上司には不登校だったことを伝えました。二浪したことは、就職時にはなんのハンディもなかったと思います。会社の後輩にも二浪した人がいますが、それが支障になったとは聞いていません。

 

笠間卓哉さんからのメッセージ 「不登校から学んだこと」

 不登校から学んだことは「自分の弱さ」だと思います。自分自身が追い込まれたときに、その状況から逃げることを選んだからです。当時の自分は、学校から逃げることで楽になり、家という空間にいることで安心していました。
 ただそこには、少なからず学校生活に対する怠惰な気持ちもありました。精神的に未熟だったこともあり、学校に行けば腹痛を起こしたり、気分が悪くなったりすると、いじめや学校にかこつけて逃げていたのではないかと思います。
 しかし、あのときの自分の弱さを知っているからこそ、今の自分があると考えます。浪人生活、就職活動、不登校を明けてからも逃げ出したくなる状況は多くありました。ただ、そのような状況下にあっても、自分自身の底辺を知っているからこそ乗り切れたのだと思います。素直に言ってしまえば、もうあのときのような生活には戻りたくないという反発心があるのだと思います。
 最後に、今の自分は不登校だったからこそ、めぐり会えた方々、いろいろな経験ができたのです。つまり、不登校であったことを後悔はしていません。

 

 

 

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